結局誰が悪いのか?―あなたか、私か
これまでの文章では「世にある道徳」や「善悪」、そして「ポリコレを中心とした善悪のトレンド」に対して肯定的に取り扱っている文脈はほとんどない。
その理由はシンプルで、善悪の概念は全て「結局誰が悪いのか」という話を始めるからだ。昨今、人と人との衝突や問題ごとが起きたとき、誰もが積極的に「結局のところ誰が悪いのか」ということを論じ始める。そうして、過去の例や現在の道徳のトレンドに照らし合わせ、この人が悪いのだ、だから問題が起きた、不幸な人が生まれた、というふうに結論付ける。実際には誰も悪くないこともあるし、どっちも悪いこともある。
ここ十年、二十年で善悪や道徳の管轄がさらに肥大したことで、人々は今までよりもさらに激しく「誰が悪いのか」を気にし始めた。「悪い人間」が生まれる度に、激しく憎悪し、批判し、攻撃するさまを皆が目の当たりにし、「自分は”悪い人間”でありたくない」と強く願う。そして、他人と衝突すると、「あなたが悪い人間だ。なぜなら私は悪くないのだから」と互いに言い合う。そこには「問題や諍い、不幸があるところには必ずひとりの犯人がいる」という強い思い込みがある。その押し付け合いの過程で、とっくに最初に起きていた問題よりひどい様相を呈して、泥沼にはまるまで傷つけ合ったりすることも珍しくない。「人を傷つけるのは悪意だ」という思い込みがあるから、他人に傷つけられたらみんな悪意だと思う。逆に、悪意なく人を傷つけた時には「私はあなたを傷つけていない」と頑として認めない。いずれも、あらゆる問題に対して「善悪」、つまり「誰か悪い人間がいる」という視点を持つ癖がある人たちの間で必ず起こることだ。
だが、要点はそこではない。「誰が悪いのか」という思考が引き起こす最大の問題は「受動的な人格の形成」という部分に集約される。
何か問題が起きたとき、「誰が悪いのか、そして悪くないのか」という善悪・道徳的な観点の検証がなされると、悪い人間と同時に生まれるのが「悪くない人間」の存在だ。
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