差別はなんでなくならないのか
大量失業は、個人化という条件の下では、個人的運命として人間に負わされる。人間は、もはや社会的に公然とした形でではなく、しかも集団的にでもなく、個々人のある人生の局面において、失業という運命に見舞われる。失業という運命に見舞われた者は、自分一人でそれに耐え忍ばなくてはならない。(「リスク社会」、ウルリヒ・ベック)
ウルリッヒ・ベック「リスク社会」によれば、個人化が進んだ社会ではあらゆるリスクが集団や共同体といった緩衝地帯を通り抜けて直接個人に分配されるという。
昨今のコロナ禍は、この言葉の意味を私たちにこの上なく分かりやすく説明してくれた。疫病下でジムや飲食店、娯楽施設のような人間同士の接触をともなうサービス業がのきなみ自粛要請を受け、その間の収入が絶たれ、十分な保障が受けられない。あるいは学生がアルバイト先を失い、学費が払えなくなり、実家に帰るための移動も禁じられる。社会に所属する「わたし」の遭遇した被害の全責任を、個人としての「わたし」が負わされるのだ。(※1)
お笑い芸人の岡村隆史さんがラジオで、「コロナが収束したら美人さんが(風俗)お嬢やります」と発言したことは記憶に新しい。こういった失言ほど社会のあり方を、そしてそのあり方に対する一般的な理解を如実に表しているものはない。
この発言が示しているように、社会が受ける避けようのないリスクを「個人」が請け負う構造のひとつの結果として、女性の水商売が社会保障のようなセーフティネットの消極的代替になっていることは誰にも目にも明らかになっている。それを逆手に取って、個人がリスクを受け取る構造の「恩恵」と表現する人間がいるということは、つまり過剰なリスクが個人に向けて放たれている目的のひとつとして女性の孤立が存在しているということである。
これについては「恋愛はなぜ廃れるのか」で詳しく触れたが、人間は放っておくと子どもを産み増やさない種族であるので、男女が互いを渇望するように様々な工夫を施さなければならない。伝統的に男性は家庭内での役割を、女性は社会での役割を阻害され、異性の存在なしに生きていけないように仕向けられてきた。経済力はそのうちで女性が欠乏するように阻害を受けてきた要素であり、その意味するところは、「女性が自立を促され、自分で稼ぐようになれば男性は必要なくなる」という事情である。
そこで、女性の経済的自立があらゆる工夫を凝らして妨害されてきた経緯が女性差別の歴史だと考えられる。フェミニズムが言うように女性は教育面や「女がこういう仕事をすべきではない」といった固定観念の植えつけによってある程度機会を制限されて社会に進出することになるが、こういった前提を排除して「システム的な」平等を強調することで格差を再肯定するのがメリトクラシー<実力主義>の言い分である。
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