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個性原理と「変われ」と「変わるな」のジレンマ

人間には本来的にそのひとの目指している理想の目的や姿といった自己像があらかじめ備わっているという考え方は近代に確立された自己実現とよばれる思想に依っており、この考え方は一般的には夢や希望、個性といった概念の欠かせない一要素として存在している。

一方で、人間の欲望ーーーわたしはどうしたいか、どうなりたいか、何がほしいかーーーや自我は、他者をコピーして生まれるものであり、「わたし」から他者の影響を排除していけば最終的には「わたし」自身の中には何もなくなってしまう。これは、近代的な自我が帰結する矛盾のひとつである。

人それぞれの個性、などといった言葉で表現される自己実現という考え方は、基本的に以下のようなモデルに根ざしている。



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△「自己実現」のモデル



自己実現の主張によれば、人間にはそれぞれ「本来の」「持ってうまれた」目的や、使命や、真の姿とよぶべきものがあり、その「本来の姿」と現在の自己がずれていることがさまざまな苦しみや葛藤のもととなる。

この考え方の大きなメリットとデメリットの中核をなしている要素とは、「いまの私」という現実がまるごとカッコに入れられ、かりそめのものに過ぎないということになってしまう部分である。つまり、現実がどうあっても「本来の私」というけがれのない、決して外部に脅かされない自己の理想像があれば、現実の私はどれだけ薄汚れていても、あるいは理想と乖離した行動を取っていても問題ないということになり、このことは自己の理想と現実の激しいギャップに耐える効果を与える反面、かりそめのものに過ぎないということになっている現実をわざわざその<すでに認められている理想>に近づける必要が薄らいでしまうという副作用も不可避的に生じてしまう。



そのままでよいのか、変わらないとだめなのか


自己実現のいう、「本来の自己」というすがたを規定した途端に、人はひとつのジレンマに陥ってしまう。それは人が何かをめざし、変化しようとしようとすること自体が、「現在の自己」である現実のわたしを否定するものとなってしまうという矛盾である。

たとえば、抑圧の強い母親とそれに反発を覚えている娘がいたとしよう。娘は無意識的な反発を、顔を整形したり髪を染めたり、自己像に変更を加えることで繰り返し表現しているが、母親はそのことを良く思っていない。このとき娘は、自分の本来性としての<個性>を認めてほしいと訴えるが、これに対して母親はむしろ「顔かたちをいじって『本来の自分』を否定しているのはお前のほうではないか」「ありのままの<本来の>自分を受け容れていないのはあなたの方ではないか」という矛盾を突きつける。

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