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憎悪の中に保存されるもの

父は何にでもすぐカッとなった。怒ってわめき散らし、人をボロクソに言うんだ。実際、楽しんでやっているみたいだった。まるで映画のシーンみたいだったけど、僕たちにとってはリアル以外の何ものでもなかった。自分は父みたいになるまいと誓ったけど、今の自分は父とまったく同じことをしている。「私は親のようにならない」C・ブラック



親のある性質や悪習に苦しんだ子どもが「こうはなるまい」と固く誓ったとき、皮肉にもその性質がそっくりそのまま子どもに遺伝されたり、形を変えて現れ出ることがある。過去の苦しみと憎悪に比例して、親に「似てしまった」自分に対する罪悪感と自己憎悪も肥大する。結果的に、未熟な親に対する「許せない」という気持ちは自分にそのまま跳ね返ってきてしまう。

親に与えられた愛情が無意識の中で正当化を受けている場合、たとえば「親が私を殴ったのは愛情からである」というふうに認知の歪みが起こる。これは悪い部分が否認され、理想化された親が現実の親の存在に上書きされているためだと考えることができる。一方で、自分を苦しめた親を憎悪する場合には、今度は現実の親に対して脱価値化された「悪い親」の像が上書きされ、結局のところ全体としての親、つまり「現実の親」の存在は認められない。それはある意味で、理想化された親の像、「こうあるべきだった」親の姿を保存することになってしまう。

上のように、自分の中のある感情や性質を否認し、抑圧しようと試みたときに、かえってその感情や性質が「病的な」症状として現れるという過程はフロイトが神経症の病理として仮定したものになぞらえて考えることができる。



ついで、患者のはっきりした言明によって明らかなことは、患者の意思的な努力つまり防衛の試みである。私の理論はこの点を重視しているが、少なくとも一連の症例では、意志的な努力がその意図するところを達したと思われたのちに恐怖症や強迫観念がはじめて現れたことを、患者自身が解明している。「私には昔ほんとに嫌なことがあって、私はそれを押しのけて二度と考えまいとつとめ、やっとうまくいったが、それからというもの他のことにとりつかれ、こんどはそれからのがれられなくなった」こう語って、ある女の患者は、私がここに展開した理論の重要な点を保証してくれた。(フロイト著作集6)



たとえば私は、ヒステリー症の母親に怒鳴られ、あるいは躁鬱症の父親に脅されて育った子どもである。私は、突然怒りだし、荒れ狂う親の姿を見て「決してこうはなりたくない」と考える。私は「怒る人」みなに親の姿を転移し、ひどく恐怖したり、強い憎悪を抱く。

私は、あまりに長い間「怒鳴る人」の脅威に晒されてきたために、怒りというものを人間が含んでいる様々な感情のひとつとして捉えることができず、その存在自体を悪として捉えている。私は、怒らない人を理想化して特別視したり、逆に少し怒っただけでも「この人は怖ろしい人である」というふうに忌避したりといった二元的な評価を下してしまう。

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