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もし人間の寿命が∞だったら?

今日はちょっと、人間の寿命が無限だったらどうなるのかについて考えてみたいと思う。当面はその心配はないので、考えなくてもいいことだが。

さて、技術の進歩というのは基本的にはそれまで不可能だった選択肢を増やすものなので、必然的にそれまで必要なかった“判断”を要求するということでもある。そして、判断をするということには、必ず善悪や倫理といった問題がついてくるのである。

たとえば、あなたが私の主治医(あるいは家族)だと仮定して、私が非常に老い衰えて病気で苦しんでいるとする。医療の発達していなかった昔なら、私はころっと死んでしまうだけだが、現代なら私は胃や腸に穴を空けて栄養を流し込むとか、器械に繋がった管を通すとかしてどうにか生命だけは持ちこたえることができる。

私がその病気に絶望的な苦痛を感じていて、毎日延命治療をやめてくれと懇願したとすると、関係者であるあなたはそれを拒否するにしても、承諾するにしても“判断”を迫られることになる。延命が「不可能」だった時代には存在し得なかった倫理的な葛藤を強いられることになるのだ。



選択不可能性の喪失


一般的には「選択肢、可能性が拡がる」ことは善しとされているし、技術が際限なく発展する原動力もそこにあると言えるが、現実にはこの「選択肢が拡がる」ことを歓迎しなかったり、むしろ反対する人々も少なくない。

なぜなら、判断が可能になるということは、そこに自由意志による選択が介在するということ、つまり責任を負わなければならなくなるのを同時に意味するからである。

なかでも、上にあるような生命の存否に関わる「判断」は重く、大抵はその「判断」を可能にすることそれ自体に対する反発や抵抗を伴ってきた。たとえば、堕胎や避妊が可能になることは、可能性的な状態にある生命を「存在させる・存在させない」という判断を可能にする。それが不可能だった時代には発生し得なかった倫理的判断の余地が生まれ、そして責任も生じてしまうのだ。

選択不可能であったところに選択の余地が生まれるということは、それまで習慣の一部に過ぎなかったものをひとつの倫理的責任の伴った判断にしてしまうという側面がある。責任を負わなくてよい、という状態を一種の恩恵と見做すならば、という条件をつければ、ここには「選択不可能性の喪失」という側面が存在する。



二重判断


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△選択的判断は上位の判断を経て可能になる


さて、ここまでを踏まえると「Aする・しない」という、一見すると二者択一の判断は、それよりも上位の判断ーーーつまり、「判断をするかしないか」というメタ判断を経てはじめて可能になることが分かる。

図のように「Aする・しない」の判断は、まずそれが「判断可能であるか否か(あるいはするかしないか)」という判断を受け、そこで「判断不可能である」とみなされた場合には不問となるか、習慣や命令に対する服従のような「判断不要の選択」が優先される。

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