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”弱者”がなぜ”羨望”されるのか?ー「傷ついた」と言えない人たち

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さて、ネット上には傷ついていると主張する人にむかって「そんなことでいちいち傷つくな」とか「被害者ぶるな」とわざわざ唾を吐きかけにくる人が沢山いますね。一般論としては、この人たちは「自分の加害者性を認めていない」のだと批判されがちです。しかし、今回はむしろ「この人たちが認めていないのは自分の弱者性や被害者性のほうではないか」という視点の話をしてみたいと思います。

前半では、すでに何度か説明した「傷つきやすい人」に過敏反応する人ほど精神的に弱いという逆説について書いています。本題である「弱者への羨望」というねじれた現象に関しては後半から触れているので、必要な方は読み飛ばしてください。



傷つきやすい、“イノセント“な自己像


さて、「弱者をいたわるなんてとんでもない!」というマッチョ論は注意深く観察すれば必ずひとつの矛盾にぶつかることがわかります。「弱者をいたわるなんてとんでもない!」と主張する人たちは、何かに「傷ついている」と訴え、改善を求める人たちに対して「そんな些細なことで傷つくな」とか「被害者ぶるな」といったかたちで強さを求めますが、ここで想定されている「強さ」は根っこから折れてしまっているのです。

なぜなら、この人たちがもし自認するとおり「心の強い人」ならば、何かに傷ついている人の存在に「罪悪感」を覚えたり、自分の「加害者性」を意識してしまうことなどあり得ません。わざわざ「傷ついている人」に向けて(人によってはわざわざ相手を探してまで)アクションを起こすのは、そこにある何かが自分を傷つけるからです。

これでは分かりにくいので、たとえば「あなたの言動は私を傷つけている」と言われた人がどのような反応をするか考えてみましょう。ここではこの矛盾が凝縮した形で起こります。


A:わたしがあなたを傷つけたと言うなんて、その表明こそがわたしを傷つけている。あなたこそが加害者だ!

B:わたしは知らない間にあなたを傷つけていたようです。謝ります。


この例では、「自分の“加害者性“を認めない人」がいかに繊細であるかと同時に、「自分の“加害者性”を認めて謝る人」の一種の図太さのようなものが逆説的に現れていると思います。

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