”自分を嫌いな自分が好き”な人
以前、「平気で生きるということ」という精神衛生の建築に関する文章を書いていて半ば不可避的にぶち当たったテーマがある。それは「自己肯定感」と「自己愛」のふたつだ。
生きづらい人に対してよく「自己肯定感が足りない」と言われる。自己肯定感が足りないとは、自分が好きではない、好きになれないということだ。しかしそういう人は、一方では「自己愛が強すぎる」とも表現される。自己愛が強すぎるとは自分のことが好きすぎるということだ。
この二つは一見すると矛盾しているようでいて、しかし奇妙なことに多くの場合は両立しているように見える。確かに、自分を愛しすぎていることと、自分を愛せないことの二つに「同時に」苦しんでいる人を多く見てきた。
この時期、ちょっとした知り合いで作家のKさんという方が(この方は超売れっ子でありながらずっと不幸なのだが)、「自分のことを嫌いなままでいい」という、開き直ったような、しかし開き直れてもいないような不思議な発言をしていて、この表現は秀逸だ、と感じた。
つまりある種の人は、「自分のことが嫌い」でありながら、同時に「自分嫌いな自分のことは好き」という分裂した感性を持っていて、例えるなら壺の中から手を出そうとしながら壺の中身を掴んでいるので手が出せない、というような状態にあるわけだ。
もしも自分を変えて、自分のことが好きになりたいのならカウンセリングでも受けてみればいい。しかし、自分嫌いの中には一定数、「自分を嫌う自分」という総体への愛着は持っている人がいて、その愛着ゆえに「自分のここがおかしい、ここが嫌い」と言いながら絶対にそこを直そうとしない、という一種のパントマイムを繰り広げることになる。
実際、この光景を延々と見せられると周りからするとふざけられているような心地がして、自虐を装った自慢だとか、不幸を売りにしていると揶揄されることになるわけだが、当の本人は必死に足掻いているのである。
たとえば、何度恋人を取り替えても結局暴力的な人物を引き当ててしまう人というのは完璧にこの傾向に当てはまっていると考えられる。
「自分のことを嫌いな自分が好き」という矛盾した状態にある人にとって、暴力を振るった数秒後に優しくなる、という矛盾した態度は求めるものに完全に合致してしまうわけだ。暴力は自分の中の嫌いな部分、汚点があるのを認め、それを罰することで「改善を求めないままに」存在を許可する。そして、「あなたのここは嫌いだ、でもそれもまたあなただ」という点で合意したあとに、優しくされることで、悪い部分を含めた存在そのものを肯定してもらえるわけだ。「殴る、けど側にいる」ことによって「嫌いな部分に寄り添う」ことが表現される。
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