<男対女>はなぜ終わらないか? 「逆エコーチェンバー」現象の仕組み
皆さんは「エコーチェンバー」とか「サイバーカスケード(集団極性化)」とかいったワードをご存知でしょうか?どちらも、主にネット上で「同じような思想を持った集団が形成されて歯止めが効かなくなり、思想が過激化する」ような現象をさす概念ですね。
しかし、今回はこの「エコーチェンバー」や「サイバーカスケード」のように、「外部から見た集団」が極性化するという見方自体が認知バイアスであり得るという暴論を打ち立てたいと思います。
以前、この問題を「ごはん派」と「パン派」の対話になぞらえて、その本質が「反パン派」と「反ごはん派」という泥沼の闘争の文脈に横滑りする様子を簡易的に図で表現したことがあります。これがその図です。
△対話と闘争には境界がない!
ここでは、「ごはんはおいしいよ」とか「パンもおいしいよ」が建設的な意見、そして「ごはんはまずい!」「パンは消滅すべき!」というのが不毛な論争だと受け取ってください。
そうすると、「対話的な集団」と「侵略的な集団」において、次のような差が生まれると考えてよいと思います。
対話的な集団・・・相手集団の中から有効な意見(反論)を探す
侵略的な集団・・・相手集団の中から間違った意見を探す
「対話的」な集団は、たとえそれが自集団の掲げる論理と一致しないものであっても、相手の集団から有効な意見や反論を汲み出し、変容を厭わない性質を持っています。
対して、侵略的な集団は自集団の掲げる論理と一致しないものの存在それ自体を「侵略」とみなし、その集団を攻撃することで自集団の正当性を補強することが目的化します。
ごはん派・パン派の例になぞらえると、後者のアイデンティティ性の大きな違いは、後者の集団は「反ごはん派」的であることをパン派的であるとみなしたり、「反パン派」的であることをごはん派的であるとみなす「アンチ」的な性質にあります。
こういったアンチ集団は、中心にある特定の思想の正しさよりも、自集団の他集団に向けた敵対性そのものに立脚しており、「間違っているライバル集団がいかに間違っているか」を証明し続けることで自集団の自己同一性を保とうとします。
このようにして二つの集団が空洞化していった結果、以下のような状態が立ち現れます。
ネット上では、どのイデオロギーや集団においても、あるいはその集団に敵対する集団においても恐らく成立することですが、集団に所属し、別の集団と敵対する立場に身を置くと、途端に敵対する集団の中から選りすぐりの悪者と格別に「正しからぬ」人物が自集団の間で共有され、その都度「退治」され、自集団の「正しさと絆」が強化されます。
これはその集団が特別に愚かで、間違って歪んだ思想を持っているからそうなるのでしょうか?いいえ、むしろこれは全ての集団の性質だと言ったほうが良さそうです。なぜなら、集団をひとつのイデオロギーに固定するためには、集団内ではその集団の根幹を変容させるような言説を拒む「免疫」のような機構が必要になります。そして、集団が同一な形式であり続けるためには、「有効な反論」こそが度外視され、廃棄され続ける必要が生じます―――結果的に、集団内における敵集団の言説は常に「誤った、愚かで、無効な」言説の域を出ることがありません。
ひとつの思想によって結束している集団に不可避的に生じるバイアスから逃れるためには、たとえそれが自分とまったく同じ思想の集団であっても、一旦は「外に出る」必要があると言えるかもしれません。
ここまでを整理すると、次のようなことが言えると思います。従来、集団の極性化は・・・
「自分」というバランスの取れた存在を想定し、第三者的な立場から「極性化した集団」の誤りを観測しているという前提が立てられています。ここでは「おかしい集団がおかしい理由」というトートロジー的な因果関係しか発見されません。
ところが、実際にはこの「自分」が既に何らかの歪みの中にいるとすればどうでしょうか?たとえば、SNSでは「フォローした人たち」の言説が優先的に流れてきますが、その言説は常に偏りがなく、誤った印象を与えないようにバランスが取られていると言えるでしょうか?
答えは「いいえ」です。インターネットの性質上、私たちが「都合が良いと感じる情報や言説」を恣意的に選択するという偏りは絶対に避けられず、「自然」に入ってくる情報こそが歪められたものとなります。
結果、「集団の極性化」なる現象は、むしろ下の図のような説明のほうが適切になると言えます。
△敵イメージの恣意的な形成
知らないうちに「集団A」に所属し、「集団B」と対立する立場に置かれている私のところには、これまた知らないうちに「集団B」のうちで最も「集団A」の信念を脅かし得ないような、自明に誤った言説や、拙い人格攻撃のようなものが「優先的に」シェアされます。それも、似たような人物の似たような言説が繰り返しです。
図で言うと、集団Bの中から特に目立って拙い意見を言っている人物が「集団A」の中でシェアされ、「集団A」の中に「拙いB」のイメージを中心にして虚集団B’が形成されます。この状態とは、実際には集団Aにおける「Bのイメージ」が変遷しただけで、実在の集団Bが「極性化」したとは言えません。ところが、自分がその内部に所属していることの偏差を不可視にしている集団Aにおいては、攻撃的で拙劣な集団Bの要素が繰り返し出現していることは紛れもない事実なので、「集団Bが極性化している」というイメージが固定化されてしまうのです。
そしてさらに、ここで「極性化している集団B」の暴力的侵略に対して、やむを得ないとして集団Aにおいても似たような振る舞いをする人物が現れればどうなるでしょうか?当然、集団Bにおいても拙劣なAの一部を代表とした虚集団A’が形成され、集団Aと集団Bの対話は実質的にはA’とB’の殴り合いの場と化します。
このような虚像を介しての対立はアンチ的な性質の集団、つまり「反A的であるだけのB」と「反B的であるだけのA」という闘争の基盤です。
例として、「男対女」という全く不毛な戦いを思い浮かべてみましょう。「男対女」というのは、そもそも戦う必要のないものなので、実際にはそこで戦っているのは「男と女」ではなく「アンチ女」と「アンチ男」ということになります。
そして、このような意味のない括りで団結している集団というのは、そうでなければ団結する術がないので、常に「敵対集団」の中の「敵対的人物」という要素を団結の契機として必要としています。中身が空洞であり、一貫した自己同一性を持たない集団は、「敵対する外部」の虚像なしに存続することができません。
このためたとえば、筆者の私が「アンチ女」であり、「女は男に敵対する生物である」と訴えたいとき、「男に敵対していない女」の存在は邪魔なため透明化されてしまいます。「男は女のATMでしかない」とか「女は顔で男を見ている」と私は主張するかもしれませんが、当然存在するはずの「そうでない女性」はここではいないことになってしまいます―――「敵」としての像に合わないからです。
△アンチの世界からは「アンチ以外」が消失する
いったん「アンチ女」になった私はその「アンチ女」的な憎悪を増幅させるような女性像をコレクションするようになるので、当然ながら「女は敵である」という証拠が大量に集まってきます。さらに、同じような憎悪を抱える仲間と共同戦線を張ると、その「敵」に相応しい対象が無限に発掘され、「敵」のイメージはさらに強化され、鬱憤が晴らされるどころか増悪します。
こうして、「敵」である集団のイメージが悪い方に悪い方にと自作自演的に上書きされ、「敵」はますます偏り、先鋭化し、攻撃的になっている―――すなわち、「相手の集団が極性化している」という認識が生まれ、疑似的に「エコーチェンバー」とか「サイバーカスケード」と呼ばれる状態に錯覚してしまうわけです(もちろん、実際に集団が「極性化」する場合もあるはずですが、これはそれ以前の問題です)。
このように、「A対B」という二元論的な対立に落とし込められた論争は、「まともなことを言うB派は見たことがない」とか「A派にはやばい人しかいない」という先入観によって膠着状態に陥るわけですが、「まともな反対派」など探しに行ってもいないのだから見つかるわけがありません。むしろ私たちは、「誰がどう見ても誤っている、極端に愚かな論敵」のほうを潜在的に求めているからです。
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