満たすものは満たさないものに劣る
前回、前々回の文章では「絶対否定」「相対否定」の視点から、自己愛といわゆる自己肯定の違いを論じた。
自己愛は基本的に、「私は〇〇である(持っている)」「私は〇〇ではない(持っていない)」という条件を取って「良い自分」と「悪い自分」の二元論的直線上に自己を置き、その条件を満たすことと満たさないことにおいて自己を評価する種の愛情である。そして、自己否定は「〇〇でない自分」という否定的要素をとって自己を定義し、そのじつ「相対否定」という範囲内で「自己を愛し」ているというものだった。
今回は、この「絶対否定」と「相対否定」の視点から、ラカンの「愛とは持っていないものを与えることである」という逆説的な言葉を解釈してみよう。
要請は、与えられうるすべての物を愛の証と交換することにより物の特殊性を消し去る、そして欲求に対する満足として受け取るものは、愛の要請をただ踏みにじるものに成り下がる(「エクリ」)
念のため要請という言葉の意味を振り返ると、ラカンの言う要請とは赤子が泣いて空腹を訴えるとか、子どもが菓子や玩具をねだるような要求の「二重性」を意味している。要するに、この子どもたちは「空腹である」とか「玩具がほしい」という具体的な欠如を訴えることで「何か」を要求しているが、実際にはこの要求の裏には母親の「現前」そのものの要求という要素が隠れている。現前とはその人が「持っていないもの」であるところの存在そのものを与えることであり、言い換えれば愛情を注ぐことに相応する。したがって、子どもが訴えるままに要求する「もの」だけを与えることはその要請を踏みにじることを意味し、その欠乏は解消するどころか増悪する。
このとき、子どもは自分が「愛情(現前)を要求していること」を自覚せずに要求するのであり、少なくとも自分では特定のものの欠如を感じていると「信じて」いる。しかし、その欠如しているものを与えられても「満たされない」がゆえに、もはや自分ではどうにもならない感情の袋小路に追い込まれる。
私たちはみな、大人になってもこの子どもである。つまり、自分で何を欠乏しており、真に何を欲しているのかを全く理解していない。そして、泣き叫んで駄々をこねる子どもにあれこれ求めるものを与える親のように、狼狽したまま「自己」の言いなりになってしまう。
自己愛とは、ちょうどこの駄々をこねる子どもに与える玩具のようなものである。つまり、私たちは自己について何かの欠乏を感じ取ると、自己が何を「欠いている」がゆえにそう感じるのかを言葉で考え、「私が苦しいのはXが足りないからだ」と推定し、そのXを獲得することで満たされようとする。
このXは、人によっては金銭かもしれないし、食べ物や行為かもしれないし、名誉や権威かもしれないし、能力が優れていることや外見が美しいことかもしれない。しかし、自ら望むままにこのXを与えたところで、私たちの中で泣き叫んでいる子どもはなお満たされず、ますますその要求を過激化する。
このように、自己に対してそれが求めるままに与える態度が、これまで「相対肯定」と呼んだものに他ならない。自己に対する相対肯定とは、「X的である私は私である」というある価値観に基づいて、その「Xを与える」ことである。
引用のラカンの文章にある「物の特殊性を消し去る」とは、与えられたものが「否定」され、意味を失い、そこから純粋な愛の証そのものが汲み取られることを意味する。ここでの「否定」はヘーゲルの言うアウフヘーベンの部品としての否定であり、「絶対否定(否定の否定)」への契機としての「肯定的な」否定である。
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