「自分を楽しませ続けなければならない」という重圧
楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン)
Twitter上で「おふざけ」を働く聖職者、あるいは企業公式アカウントといった存在は脱領土化の作用を説明するために都合がよいかもしれない。これまで一種の権威主義的な力によって保護されてきた「お堅い」文化領域は、企業広報はもちろん、文学賞的なアカデミズム、あるいは宗教でさえ、その領土を解体され、もっとフラットな競争主義にその身を晒されることになる―――そこでは人気だけが価値を示す指標になる。宗教や文学が示すような教義的な価値はもっと普遍的な説得力を持つ価値、つまり「わたしたちを楽しませ、興味を持たせられるか」という次元で他の娯楽をの競争を強いられ、場合によってはそれが本来担っているべき役割を放棄せざるを得なくなる。
ここにおける彼らの立場の難しさは伝統的な日本の「無礼講」という言葉で表現するのが適切だろう。「無礼講」は自由を許されるのではなく、実際にはもっと厳密な不文律を守りながら「自由」を表現するという義務を負うことであり、それは直接的に抑圧を受けるよりももっと複雑な判断を要求する。
そして、かつて抑圧を受けていると考えられたもの、自由、個性、享楽、こういった今では手放しで礼賛されるものについて僕たちもまた、いまや不文律の中でそれを表現するという義務を負っていると言える。
享楽はたんなる快楽ではなく、快感よりもむしろ痛みをもたらす暴力的な闖入である。われわれはふつうフロイトのいう超自我をそのようなものとして捉えている。すなわち、われわれに無理な要求を次々に突きつけ、われわれがその要求に応えられないでいるのを大喜びで眺めている、残酷でサディスティックな倫理的審級として。
(「ラカンはこう読め!」スラヴォイ・ジジェク)
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