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「犠牲のドラマ」という嗜好

(内田)3.11直後の原発事故に、妻の手を握り子を背負って寒風の中を西に逃げてゆくという男はまったくいなくて、多くの男が「お前ら実家帰ってろよ、オレは会社あるから」と言って、家族と別れた。そのときの選択の意味って、男たちが思っていたよりずっと重かったんじゃないかな。そう言うと、「だって、オレが稼がないで妻子をどうやって食わせるんだよ」と口を尖らせて文句言うと思うけど、「金なんかどうにかなるから、とにかく家族を危険から守る」という選択をした男がほとんどいなかったということの意味は深いよ。父権制はそのとき名実ともに崩壊したんだと思うね。
(高橋) はっきりわかりました、ということだね。さようなら、と。そういう意味では、もはや通常の家族の物語は成り立たないということかもしれない。
(内田)どこかで家父長の権原を「金を稼いでくること」に限定して、それに甘んじていたのがいけなかったんだろうね。金さえ稼いでくれば父や夫でいられるわけじゃない。そんなの副次的なことであって、家のなかで父性原理を体現するのが父親の仕事だったんだけど。
(GQ 2013年、「父親の不在」を文学は告げている──内田 樹×高橋源一郎



母性とは何か、と訊かれるとどんな人でも何となくのイメージは浮かぶだろう。優しさ、許し、包み込むような愛情、いずれにせよ悪くないことでいくつかは挙げられる。しかし、父性とは何か、と問われるとぱっと出てこない人が多いのではないだろうか。リベラル/ポリティカルコレクトネス時代の父親は、暴力的で抑圧的な家父長制の父親像と根深く結びついていて、なかなか良い側面として規定することが難しい。

上記の引用は2013年、だから7年前(津波が起きて福島で原子力発電所がああなってから約2年後)に、内田樹・高橋源一郎両氏が「文学から父親がいなくなった」という傾向について話しているものだ。かいつまんで説明すると、当時の家庭内の父親の影響力が極微であるか消え去ってしまい、文学に母源的な抑圧しか登場しなくなってしまった、という話だった。

原発事故と父親消失にどれほどの関連があるかについてはもっと詳しい人に任せたいものだが、その筋に頼らなくとも家庭内での父親の存在がこの何十年をかけて透明になってきている、ということを僕たちはぼんやりと感じ取っている。家父長制が前提にしていた怖くて強大な父親像は、有害なまでも存在感を放っていたかもしれないが、いまやそれは「有害ですらない」透明の領域に到達しつつある。



旧い家父長的な父親の存在論は妻、子供に対する「誰のお陰でメシを食えている」という例のセリフに集約される。かれは日中、働きに出かけていて家におらず、家庭内での影響力が小さい。そして父のいない間に母は子供を、あるいは子供は母を独占する。家父長的な父親は「そこにいない」という圧倒的な弱さを補うため、「自分が金を稼いでこの家庭を運営している」という図式を持ち出すことで辛うじて威厳や影響力を保っていたといえる。いうまでもなく、この図式は女性の社会進出に伴う共働き家庭の増加によって瓦解することになるのだが。

その後、父親から暴力・抑圧的な毒気が抜けて純粋にワーカホリック的な存在、いわゆる「仕事ばかりで家庭を顧みない」父親へと変遷しても、根本的な問題は相変わらず「父親がそこにいないこと」、そして「稼ぎ(お金)が不在のエクスキューズになるか」という点だったといえる。資本主義社会の透明な父親は絶えず「そこにいなかったこと」を糾弾され、その不在の罪を「金銭」によって償おうとするのだ。

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