不安はなぜ尽きないのか
人は誰しも、自分がかくかくしかじかの工程を経て幸福になるという物語を携えているが、この物語はそれぞれにおいてばらばらである。それは、ある人にとっては途方も無い額の金銭を得ることかもしれないし、またある人にとっては誰かに愛されることかもしれないし、またある人にとっては信仰かもしれないし、夢をかなえることや、自分の生業を意地でも成立させることかもしれない。
これらの物語は、将来的な幸福への漠然とした期待を抱かせると同時に表裏一体の不幸を定義する。たとえば私が長年、運命の恋人と結ばれれば幸せになれるだろうという淡い期待を抱いていたが、実際にはそうならなかった場合、このロジックは反転して「私が不幸なのは運命の恋人が訪れなかったからだ」とむしろ不幸を説明する理由になるだろう。このときの私は、運命の恋など最初から信じていなかった場合と比べて明らかに不幸だといえる。自分の不幸を合理的に説明できるためである。
もはや自分の不幸を説明するものでしかなくなった物語を抱え嘆いている状態とは、外部から見れば信じていた神に裏切られて捨てられ、それでもその神を信仰しているというような状態であり、あくまで外部から見れば不幸であり続けることをやめたければそのような物語は捨てればよいということになる。
しかし実際には、物語によって不幸に貶められた人はなおさらその物語に固執し続ける。つまり人は、幸不幸より別の何かを優先しているのだと言える。
△空の額縁が飾られていたものの不在を訴える
このことを、絵画とそのフレーム(額縁)になぞらえて考えてみよう。たとえばある男が理想の恋人と出会って、この人物と結ばれれば幸福になれるだろうと信じたとき、男の精神は理想の恋人をとおした幸福の物語によって満たされる。絵画がその恋人であるなら、恋人をとおして自分が幸福になるであろうという物語はそのフレームにあたる。
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