変化できない、"ありのままの"私
精神分析医の手にかかると、女性はもう決して、どんな用途にも向かなくなってしまう。僕はそれを何度も目の当たりにした。この現象は精神分析の副作用ではなく、間違いなくその第一義と考えるべきである。自我を再構築すると称して、実のところ精神分析はむちゃくちゃな人間破壊を行う。無垢、寛大、純粋・・・・・・そうしたすべては、精神分析の野卑な手にかかって、あっという間に破壊されてしまう。(「闘争領域の拡大」、M・ウエルベック)
僕たちにとって、心理学や精神分析が人の心を「ばらばらに切り刻む」というイメージを持つことは何も不自然ではない。ひとつには、西欧的自己同一性に基づいた道徳観によって僕たちが繰り返し伝えられてきた"人は誰もみな尊重すべき素晴らしい個性があって、それは誰にも侵害ないし抑圧されるべきではない"という前提がある。尊重すべき素晴らしい個性を持った"わたし"がどうして社会適応に難を抱え、"わたし自身"に変更を加えることを余儀なくされるのか?この関係で精神分析や心理学は少なくとも"わたし"の味方には思えない。
そして第二に、実際に産業化された精神医学が患者を消費者として扱い、いっこうに改善する様子のない患者に投薬治療を続けたり、社会への再帰を前提にした通り一辺倒な治療を施すことで不信を買ってきた側面もある。話を聞くだけのカウンセリング、アルコールと抗うつ剤で破壊された人格、薬漬けにされ、何も解決に向かわない絶望によって遂に死に追いやられた者、そういった他者の体験を通して心理学・精神医学の"誰も幸せにできない"無力さのイメージは強化され続けてきた。
しかし、ほとんどの人にとって「精神分析」にかかることの抵抗は前者の理由によるもの、つまり"世にいう個性があって、尊重されるべき私をどうして精神分析的の冷たい力学のメスにかけなければならないのか?"という事情が大きい。「わたしがわたしであることの力学」が解明されたとき、私の神秘性の一切が失われ、個性はただの力学的帰結に失墜する。この事情によって―――つまり分析にかかり、自己を"修正"することが他ならぬ自己の由来する個性を破壊するというイメージによって―――むしろ臨床心理学と反対にあるもの、自己啓発とか新興宗教、疑似科学的なものの需要が尽きなくなってしまうのだ。
そして、今日では個人は"尊重すべきありのままの私"と"ありのままの私ではどう考えても生きて行けない世界"の間で引き裂かれていると言っていい。実際のところ、"ありのままの人間"がそこまで素晴らしいものなら、その人たちはそのままにして、社会のほうが個人に対して適応すべきなのだから。
この"生きていくには変わらなければならない"という事情と、"私に内在している素晴らしさ、ありのままの私"という個性尊重の矛盾は、これまで数回にわたって説明してきたデカルト的な"わたし"と"世界"の対立、あるいはフロイトの原因論とアドラーの目的論の対立によって示唆される主体と客体の断絶関係によって捉えなければならない。
古典力学的な帰結を背景にした"ありのままの私"は、欠点も含めた全てを内包して全体として尊重しなければならない。だから、私が持っている欠点は恐らく変更不可能であるだろうし、もしその欠点を"改善"ないし"修正"したとき、私はもはや私ではなくなっているだろう…。アドラーがフロイトの原因論に見た無力さは、自己がそれまでの力学によって宿命づけられたものであるなら、それから先の運命もまた変えられなくなってしまうという事情に由来している。
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