コンプレックスが「大切にされる」理由
財産欲の強い者とは、自我が不安定なのはまだ財産が足りない、まだ貧乏過ぎるからだと思っている者である。彼は、はたからはいかに大金持ちに見えようとも、もう充分金持ちなので、これ以上儲ける必要はないと思うことができない。そのことを認めれば、自我の不安定の原因が見えなくなり、自我を安定させる希望が失われ、その希望が失われれば自我が絶望的に不安定になるからである。(「幻想の未来」、岸田秀)
前々回、 不安はなぜ尽きないのか…では人が「自分の不幸を説明するもの」を「自分の幸福を説明するもの」と同じか、あるいはそれ以上に大切にする理由について絵画とその額縁(フレーム)の比喩を用いて説明した。
ある人が持っている、「私はこれを持っているから幸せである」、あるいは「これを獲得したら幸せになれる」という物語は、実際にはそれが失われてしまったり、決して十分には手に入らないと確信されたとき、もはやその人に対して不幸を説明するものでしかなくなる。外部から見れば、この人は「自分の不幸を説明する」根拠でしかなくなったもの―――たとえば叶わなかった夢、失われた希望、まがいものの信仰、不可能になった目標、亡くなった人や愛情―――は即座に捨てて、別の物語を構築すればよい。しかし実際には、多くの人は「自分の不幸を説明する物語」をなおさら大切にするのである。
これらの物語が担っている役割は、言ってみれば人々を「不安から救う」ことではなく、「どのようにすれば不安から逃れられるか」という説明を与えること、言い換えれば「なぜ私たちは不安なのか」という理由の合理化そのものである。たとえば、「お金があればあるほど私は不安から遠ざかる」という物語にたよる人は、1000万円あれば2000万円が、2000万円あれば1億円があれば安心できるというふうに考え、「安心」の条件は無限に先延ばしにされてしまう。言うまでもなくこれは、金銭の不足がわたしを不安にしているのではなく、むしろ現在不安な理由を説明してくれるものとして金銭が利用されているためである。
ある意味で、不安にとって危険なのは私たちが「安心」の条件を満たしていないことではなく、それを満たしても「安心」は訪れないと知り、どのようにすれば「安心」の境地に達することができるかという物語を失ってしまうことである。
スラヴォイ・ジジェクはラカンの言う不安について次のように説明している。
ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近付きすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。
(「斜めから見る」、スラヴォイ・ジジェク)
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