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消費社会と不安定な自我

純粋に生理学的な欲求を除いて人間の欲望はすべて、自我の安定を目指しており、このことから次のように結論することができる。すなわち、自我の決定的安定はないのだから、欲望のめざしているところは実現不可能である。(中略)本質的に不安定な自我にもかりそめの安定はあり得るが、このかりそめの安定は欲望の満足の予想によってしか得られず、欲望の満足そのものは、自我の安定のために必ずしも必要でないどころか、かえって自我を新たな仕方で不安定にし、新たな欲望の物語が必要となる。(「幻想の未来」、岸田秀)



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絶望を捨てることはなぜ「苦痛」なのかでは、絶望や喪失といった不幸を説明するもの(象徴的秩序)が自我の安定に寄与しており、絶望を捨てることは不幸であることより苦痛を伴うという逆説的な関係を説明した。

スラヴォイ・ジジェクはこの関係をゼノンのパラドックスである「アキレスと亀」になぞらえて説明する。アキレスは亀より速く、亀のいるA地点に容易に到達する―――しかし、アキレスがA地点に到達したとき、亀はアキレスより遅い速度でも確実に異なる地点Bに到達していて、アキレスは亀に永遠に追いつけない。

欲望する主体と欲望の間にもこのいたちごっこのような関係が成立している。つまり、欲望は常にわたしたちの不満(わたしが不満なのは○○がないせいだ、○○があれば幸福になれるだろう)を説明するが、欲望を満たすことが主体の本質的な不安定を解消することはあり得ない。このため、欲望の対象に到達した主体は、そのごとに目標を上方修正し、その目標に到達すれば今度こそ安心が得られるというふうに物語を作り替え続けなければならない。野球選手が、ホームラン王になって満足したからといって引退しないように、実業家が、充分に金持ちになったからあくせく働くのをやめて隠遁するなどと言わないように、欲望の物語はどこまで到達してもその少し先を求める。

このことから私たちは、欲望にとって最も危険なのはそれが「完全に」達成されてしまうことだという逆説にまで導かれる。

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