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シャーリーとチャーリー 山口淑子インタヴュー 聞き手:大野裕之

Shirley and Charlie 山口淑子インタヴュー 聞き手:大野裕之

 戦前の満州で李香蘭として、戦後の日本では山口淑子として、戦争の時代を女優として歌手として生き抜いた山口淑子さん。1950年にシャーリー・ヤマグチとしてハリウッドでデビューして以来、長くチャップリンと交流があった。今回、シャーリーとチャーリーとの友情から、人間チャップリンに至るまで、縦横に語っていただいた。(2006年2月収録)

山口 (高野虎市の遺品の写真を見ながら)これ吉右衛門?

大野 はい。初代・中村吉右衛門です。

山口 (感嘆して)はあ・・・私の写真にもありますけど、チャップリンは歌舞伎が好きでね。

大野 チャップリンは親日家なんですが、この写真では楽屋に靴を履いたまま上がってはります。

山口 あら。(笑)向こうの方は、靴を脱ぐのが苦痛なのね。って靴が苦痛って洒落になっちゃったけど。(笑)でも、チャップリンはハンサムな方ですね。純粋な英国人ですか?

大野 はい。よくユダヤ人だという俗説がありますが、あれは違います。でも、「ユダヤ人ですか?」と聞かれたときに、否定をしなかったんです。否定をすると反ユダヤ主義に与してしまうからという理由で。

山口 なるほど。そういう積み重ねで『独裁者』を作ったわけですね。

 私は1950年にアメリカに行って、ハリウッド映画に出ました。李香蘭の「香蘭」は「シャンラン」と発音します。それと「シャーリー」が似ているということで、シャーリー・ヤマグチという芸名にしたんです。ちょうどチャップリンは『ライムライト』の準備をなさっていました。最初、当時婚約していたイサム・ノグチさんと一緒にチャップリンのお家に招待されまして、お土産で鯉のぼりを持っていきましたら、チャップリンさんは日本のことをよくご存知でね。子供たちを皆呼んで、「これはペーパー・フィッシュだ。こうやるんだよ」と、畳んでぺったんこの鯉のぼりに風を入れるために、頭の上にあげて、広いお家の廊下を端から端まで走ったんです。すると風がすうっと入って、5人ぐらいいた子供たちがきゃあきゃあ喜んでいたのを覚えています。

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