【礼拝説教】顔を上げるんだ
<はじめに>
有料記事としていますが、全文読めます。
この記事は2023年1月22日@三瓶教会の説教です。
録音はありません。
この日の週報コラムでは、『人間イエスをめぐって』の中の「悪人イエス」(著:栗林輝夫)という章にあった次の言葉を紹介しました。毎週の説教で基本的な方向性として常に意識していることですが、この週でも例外なくイメージして組み立てています。
<聖書>
民数記9章15〜23節
ルカによる福音書4章16〜30節
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。
<説教本文>
イエスは故郷を棄てたのでしょうか。いや、故郷も同じく抱えていた部族主義、出自で比較したり、他所を蹴落とす思考を棄てたのだと私は信じたいと思います。こう言うとちょっと護教的に聞こえるかもしれません。ただ、イエスのあと100年くらいして書かれたある手紙にあった「キリスト教徒にとってはすべての外国が祖国であり、またどの祖国も外国です」(ディオグネートスへの手紙)は、きっとイエスから引き継いだスタンスの一つということができると思っています。どこか一つを上げるために、他所を下げることはしない。ただ単に故郷を捨てるためなら、最初の解放を語る聖書の言葉について、いろいろと話す必要性というのはあまりないように感じているんです。
イエスの住んでいたガリラヤ地方は、「異邦人の」と呼ばれていました。これは(今もそうな気がしていて残念ですが)当時の感覚から言って間違いなく侮蔑的な意味を含みます。この背景事情はこういうことでした。かつてエルサレム周辺と比べてかなり先に超大国のひとつの支配区域となりました。その大国とはアッシリアで、その強制移住政策(捕囚と呼ばれますが捕虜としたわけではない)は、後に隆盛を誇りエルサレム地域で同じような強制移住政策をしたバビロニアと比べてより苛烈だったと言われています。後から出てきた国は、先に強国となった国々がやったことを反省して自国の政策を考えるので、より寛大になりやすいということです。
つまり、アッシリアに先に支配区域に入れられた北側のガリラヤ地方やサマリア地方は、比較して厳しい捕囚を受け、その後バビロニアに支配区域に入れられたエルサレムを含むユダヤ地方は比べれば緩やかな捕囚を受けたというわけです。その違いは、移住させられた先でその民族居住街やコミュニティをつくることが許可されたかどうか、元いたところに別の人たちを入植させたかどうかというところです。バビロンでユダヤ人はユダヤ人街をつくることができ、礼拝所をつくることができ、聖書を大まかにひとまとめのものとすることができ、残った人もそれなりに民族のまとまりをつくれた、というわけです。そういった中で、これは残念な部分だと私は表現したいと思いますが、国が滅びたことへの反省の中に外国人との付き合いという民族主義的なものが入り、外国人との結婚が禁止されていきました。そういう思考を持つに至ったグループから見て、アッシリアの支配区域に先に入れられた地域は、他地域から来た人々との結婚が多い…となりますね。それで「異邦人の」とつけられていて、それが蔑称として作用しているのです。これが福音書の時代の背景の、サマリア人とユダヤ人との敵対関係のもとでもあります。
そして、このような環境に置かれた人々は、認めてもらうために先鋭化する、ということもあります。保守おじさんの家父長制的思考の代弁者にさせられてしまっている女性議員とかも、そういう要素、あるかもしれません。比べて競わせて、より支配者層にとって動く駒に使う…というようなことは歴史書の多くのページで見られることです。ガリラヤ地域も再ユダヤ化された区域、あとになってもう一度ユダヤ教文化を受け入れるようになった土地ですから、認められるために信仰深くあるしかない、しかしそれでも、どこかで「異邦人の」などと呼ばれていた人々です。
そう考えると、イエスがその地域の一つの村であったナザレでこういうことを言ったのは、どう受け止めていいか、なかなか難しいです。虐げられた者の味方であるはずのイエスが、ユダヤ教徒と言われるグループの中で間違いなく下層側に置かれていた人々に対して、厳しめのことを言うという話なのです。
しかし、この後半の話も、他にイエスのしたさまざまなことを思えば、支配者側の論理に飲み込まれるな、出自で優劣をつけようとするな、誰を排出したかとかで地域の優位性があってたまるかよ、という意味なのかもしれません。だとしたら、この後半こそが、僕らを縛ってきた論理からの解放であり、恵みと言えるのでしょう。つまり、今日の前半もこういう意味と読み取れるように思います。
自民族中心主義という支配の論理に捕らわれている人に解放を、そういうやり方にしか目が行かない人々が新しい見方をできるような回復を告げ、そして支配・被支配どちらにしてもそういう論理によって心身をすり減らす人々を自由にするのだ!
比べることをやめにして、昂然と顔をあげよう。自分自身を比較級でなく肯定しよう。そうイエスは語り歩いたのだと私は信じます。
民族の比較によって優劣をつける、自民族中心主義といった考えは、合理的だと見られてきた時代もありました。短期的にはそうしないと生き残れないという事情もあったかもしれません。しかし、それは短期的なのです。自分たちが他よりも強くなり、その力で脅すのは、ごく限定された期間でしか有効性がないし、少し長い目でみれば、まったく役に立たないものどころか、もっと強い毒を飲んでいるということになるのです。ユダヤ人が、自民族中心主義でもって、サマリア人を見下すようになっていったのは、その毒のひとつです。ある人間を劣等であるとする論理が、一時的に人々を熱狂させ、そしてその人々の心を蝕み、破滅をもたらしてきたという事例は数え切れません。
誰かを押さえつける支配者になることを放棄してこそ、自分で自分を喜ぶ、自分の人生の王になる。その歩みは、はじめ合理的に見えないかもしれません。今日の旧約聖書の民が、雲の柱を見て、一日でキャンプをやめにしたり、逆に何日もとどまったりしたようにです。しかし、比べることをやめにした自由と見れば、空を見上げてゆっくり歩いていけるというのが、自分自身への強い肯定を含むものとも言えると思います。
イエスはこのことを語って歩きました。私たちのうちに常識と思われる順列付けのようなものの上位と下位を入れ替えるのではなく、その順列付け自体をやめにしました。それは下層とされた人々にとっても予想外なところがあり、居心地が悪いという思いを持った部分もある。今日の物語はそういう内容を語っているのだと思います。
しかし、本当の意味の解放はここにあると私は思います。すべての国々が隔てなく故郷であり、しかしその祖国も熱を入れ込んで周囲が見えなくなるということはなく、客観的にも見れる。人と命の根源において比べ合うことをせず、自分は自分との肯定を根底に持つ。そうして顔をあげ、雲をながめ、行きてゆけ。イエスはそう生きてゆきました。厳しいこと言っているようでいて、その意味は無理しなくていいんだよって優しさがあって。その優しさに抱かれ、生きてみましょうよ。
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