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【礼拝説教】新しい解放区を

<はじめに>

有料記事としていますが、全文読めます。
この記事は2023年1月22日@三瓶教会の説教です。
録音はありません。

この日の週報コラムは、ディートリヒ・ボンヘッファーの言葉を紹介しました。信教の自由を守る日(2月11日)を迎えるとき、「ファシズムへの抵抗」、そしてそのために自己目的化へ注意を向ける必要があると考えています。(ついでにボンヘッファー誕生は2月らしい)


<聖書>

コリントの信徒への手紙二 6章14節〜7章1節
ルカによる福音書21章1〜9節

(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


<説教本文>

私たち教会は、解放区を新しく求めないとならない。かつてのものは、その周囲に鉄条網が引かれていた。そのゲートを通って入るためにはキリスト教徒でなくてはならなかった。そういうわけで、かつてのものは私たちの心に、鉄条網の針を立てるのです。心を締め付け、優しさを奪うのです。「信徒でないと入れない」という救いの教理が、かえって解放区とされた区域の中の人たちの正義をなくしてきたのではないかと、私は繰り返し言ってきました。万人救済論者である私に、恵みを安売りしているという批判が聞こえてきそうですが…。しかし、安価な恵み・高価な恵みという言葉を言ったボンヘッファーさん(今日の週報コラムで登場)が言う「安価」ということの中には「教理をなぞるだけ」という意味もありまして。恵みが高価であるために必要なのは「悔い改め」ですが、その悔い改めに教理上の洗礼や礼拝などを重ねているようでは、深刻な矛盾ですよね。

教理以上の悔い改めとして、教会が設置してきた解放区の再建を考慮する必要があるでしょう。そしてそういうことをこそ、今日の福音書のイエスさんは言っているように聞こえてきます。


やもめを食い物にしてきたという批判が今日の箇所の直前にありますから、「やもめの献金を褒めた」というのも、その意味としては模範として推奨するというよりも、こういうことをさせていながら顧みないという指導者層批判という意味が強くあるんじゃないでしょうか。せめてねぎらう、というところでその批判を展開しているのではないでしょうか。こういう行動を推奨するという話だったとすれば、この前後関係はすごく不自然です。だって、「献金先の神殿、いずれ壊れるけどね」って直後にあるわけで。

全体を通して、神殿批判なのです。神殿が搾取システム(支配的構造)になっているという批判です。神殿を大切にするのは当時の常識で、もちろんその中には敬虔な気持ち、真実な神への思いをを持っている人もいるでしょう、でもそれが支配者としてふるまいたい人たちの欲望の餌にもなっているという…。イエスは小さな称賛でそれに抵抗したのです。このシステムのなかで顧みられない人を褒めるということで抵抗したのです。もっと献金せよと推奨モデルを示したのではないのです。

 

ところで、イエスはこの批判を神殿の中の人ではなく、ガリラヤの人として言っています。ガリラヤというのは、「異邦人の」などとつけられて馬鹿にされていた地域、そして、その語源は「周辺」。外からの声です。イエスもまた、この神殿を中心とした宗教組織の中で顧みられない人の一人と言えます。そう考えると、イエスのしたことは、顧みられない人同士で励まし合うという、抵抗的意味がより強く見えてくるでしょう。


イエスは周辺の人。その時代設定された解放区の外に置かれた人。私たち教会は、解放区を新しく求めないとならない。


イエスは周辺の人。周辺に置かれ、存在価値を低く見られてきた人のひとり。その意味を考えた時、今日の手紙の言葉の意味が変わってくると思います。今日の手紙は、万人救済主義者である僕にとっては、頭の痛かった箇所です。ぱっと見て、信徒でない人と付き合うなって感じの意味に見えちゃうじゃないですか。信徒になることを「信仰を持つ」と教会内で表現したりするし。

しかし、イエスはもともと信仰共同体の周縁者でした。イエスがねぎらったやもめも周縁者でした。周縁のものから正義はやってくるということを私たちは知っています。むしろ「信仰」とは、周縁に置かれた人々と共に神の国をつくるということです。それがイエスの貫いた正義です。「この正義を曲げようとする人に追従するな」という意味で、今日の手紙の言葉を受け取りたいと思います。

イエス自身が当時の宗教組織から言って周縁者だったのですから、この「信仰のない人」というのは、キリスト教信仰のない人という教理をなぞった「安直な・安価な」意味ではないと私は信じます。イエスの貫いた信実なる生き方を妨害する、つまり教理を振りかざし、鉄条網だらけの暴力的な区域、古く解放区と思われてきた区域に拘泥する人、自らが支配者としてふるまう欲を持った人、またそういう考え方が当てはまると受け取ります。ここでいう「信仰」は教理を越えた意味としての、信実なる生き方という意味での「信仰」であると受け取ります。

そして、追従するなということであって、全く付き合うなということでもありません。イエスは自分をはめようとする人ともよく話をしました。イエスが建てる新しい解放区は、正義によって立つのですから、鉄条網のような人が入ってくるのを妨害するもの、心身に棘を刺すものはないのです。誰でも入れる!入場自由!

この入場自由の解放区の管理人であるということ。教理以上を常に求めるということ。そのために自らを省み続ける。これを「高価な恵み」と呼ぶのではないでしょうか。そう考えると、全く楽というわけではないかもしれないですが、かなり刺激的で楽しそうな感じもします。
 


私たち教会は、解放区を新しく求めないとならない。かつてのものは、その周囲に鉄条網が引かれていた。そのゲートを通って入るためにはキリスト教徒でなくてはならなかった。そういう誰か特定の人間を祭り上げる神殿は壊され、私たちは新しい解放区でまことに人間であることを勝ち取るのだ!

私たちはそこで生命を喜び合う。神によって授かった生命を喜び合う。その解放区は色とりどりの花咲く美しい大地である。仏様を支える蓮。アラベスク模様を飾るつる草の数々。小さなアザミは王族よりも紫が似合う。そして麗しの白百合は高らかに歌う。
 


<参考資料>

ディートリヒ・ボンヘッファー『キリストに従う』(森平太訳、ボンヘッファー選集Ⅲ、新教出版社、1969年(再版))


<アフタートーク的な>

蓮、つる草、アザミ、白百合…といくつかの宗教でシンボルに使われることもある植物がそろって咲く情景で締めくくるのは、以前にもしたことがあるのですが、多分またどこかで使うでしょうね。けっこうお気に入りのラインです。いくつかこういうのあるんですが、まぁ「持ち歌」みたいな感覚で悪くはないかなと思っています。フルでオリジナルを毎回よりも、ちょっと前の話と重なってって感じのほうがむしろ厚みが出てくるような思いでいたりして…。(ちなみにこれのヒントはMoment Joonのアルバムです。例えば「KACHITORU」って歌の後のトラックで「勝ち取るぜ」ってフレーズ使ったりとか。)

お話の前に「美しい大地は」(『讃美歌21』424)、後に「新しい天と地を見たとき」(『21』580)という賛美歌の選曲で、自分の中では全体的なセットリストの方向性を良い形でつくれたと思っています。

今日はボンヘッファーの言葉を少し借りることに(割と早い段階で)決めていたので、週報に人物紹介は任せました。加えて彼の別の言葉を紹介して、教理上の改宗者を求めがちだったキリスト教会への釘の刺し方をより手厚くする意図でしたが…うまく作用しているかどうかは不明。

週報コラムだって言ってみたら、ライブイベントで言うところのVJがいろいろ見せていくのと似た要素を持たせられるんじゃないか…と思っていたりします。今後も全部合わせてのメッセージ性というのを意識してやっていきたいです。

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