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【礼拝説教】「生まれないほうがよかった」なんてそんなこと言わないでくれよ

<はじめに>

教会を移籍しました。愛媛県南予地方の三瓶教会(みかめきょうかい)とその関係認定こども園の三瓶幼稚園で勤めています。
少し慣れるまではこちらで説教本文を公開するのをお休みしようと思っておりましたが、半年がたち、今週から少しずつ再開してみようと思います。ただし、前の教会と比べますと礼拝堂音響にかなり変化があり、録画のよい撮り方がわかりませんので、映像はありません。

有料記事としていますが、全文読めます。

この記事は2022年10月2日@三瓶教会・宇和島中町教会の説教です。

(※)この日は宇和島中町教会の礼拝説教も担当しました。私は同じ主日には基本的に同じ言葉が語られるべきであると考えていますので、聖書箇所・賛美歌・説教原稿自体はほとんどアレンジしないと決めています。


<聖書・礼拝で歌った賛美歌>

出エジプト記12章21〜28節
マルコによる福音書14章18〜25節

20「主に向かってよろこび歌おう」
399「さすらいの民よ」
79「御前にわれらつどい」
(※)宇和島中町教会では聖餐式をしなかったために79番に代えて、399番を1節、3節と分けて歌いました。

(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


<説教本文>

ときどき、キチジロー(『沈黙』)の声が聞こえてくる。迫害渦巻く世界、何度も転んだ男の、悲しみの声です。「もっとまともな時代だったら、オレもそこそこ敬虔な信徒として生きられた」。なぁイエスさんよぉ、アンタに聞いてみたいんでさぁ。ユダが出ていくときの顔だ。あの日のあいつにキチジローの悲しみが刻み込まれていなかったかをだ、そこんところを知りたいのさ。


どうにもできない権力差ってものがあったんでしょう。エルサレムの宗教指導者連中だって、まぁそれはもっと広く見ればローマ帝国の属州で、支配される側だったわけだけれど、それでもイエスたち地方から出てきた民衆グループとは比べ物にならんほどの権力差でしょう。その人たちが本気出して取り締まろうとしてきているっていうのに、さすがに恐怖感ゼロって人はおらん状況じゃないですか。裏切ったのは良くないと言うのは簡単です。しかしそれだけでは、パンを盗むしかなかったジャン・バルジャン(『レ・ミゼラブル』)にだけ、「牢屋に入っておけ」といい、その社会状況をつくった権力者たちには何も言わないということと同じになっていると感じているのです。「監獄ビジネス」という名の搾取システム。タダ働き同然の労働力確保のためです。貧しい人々は貧しいままにして、罪を犯さないと生きていけない状況に追い込んでいく。あるいは、貧しい人々・異質とされた人々を狙い撃ちするように捜査していく。


「生まれないほうがよかった」。この言葉に長いことキリスト教はとらわれてきてしまったように思います。つまり「ユダは悪だ」と簡単にまとめてしまう方向づけにとらわれてきたように思います。罪は罪なのだから地獄という刑罰を。長い間そういう話を続けてきてしまったのではないでしょうか。同じように貧しい人に地獄を突きつけて脅し、言うことを聞かない人に地獄を宣告していく、そして好きなように扱うといったある種の奴隷制と変わらないような苛烈な扱いをしてきました。


ユダのようにはなりません、ってみんな言うのだろうか。そういう人たちにイエスは「まぁキミも「知らない」とは言うだろうね」と返します。裏切るより「知らない」と言うほうがいくらかマシだと今度は言うのだろうか。でもそれって弟子集団のなかで「俺が一番偉い!」「いや、俺だ!」と争っているのと何が違うのだろう。


誰かを叩き落として、自分がうえにのし上がるというような世界が、続いてしまいます。もしも出ていくときのユダの顔を見ないなら。その表情にキチジローと同じような神に噛み付くような信仰告白を見ないなら。そういう天国へのレースみたいな話に根本から抵抗したのがイエスだったんじゃないでしょうか。もし、イエスの「生まれないほうがよかった」を、ユダを断罪する言葉としてとらえるならば、イエスが積み上げてきた正義と慈愛の言葉と行動すべてをぶち壊して、天国をちらつかせた、苛酷な、支配者への奉仕レースをまた始める世界へと戻してしまうことになります。実際カルト集団がそういうことをやってます。


イエスは、「生まれないほうがよかった」と揶揄されるような人々、少数者・何もかもランク付けられる社会の中で下層に置かれた人々の命を肯定しました。その人々に向けられる差別的な目線と闘った人間がイエスであるという根本の話を見失ってはなりません。そうです、「生まれないほうがよかった」などと言われてきたのはユダだけではないのです。自分の人生を呪ってしまうほどの悲しい状況に追い込まれている人がたくさんいますし、そういう人々を作り出している社会状況です。

つまりイエスのしたこととは。「生まれないほうがよかった」と今言われている人々をそのままにしておかない、です。そのままにしておかないため、そういう現実があるというところから目をそらしません。そして自らも同じところに立つのです。その現実を臆さず語るところから未来が変わります。つまり「生まれないほうがよかった」とイエスが言うのは、もう誰についてもそう言わさないように、誰もそう思わせないように世界をつくりかえるためのパンチライン。イエスの生きた姿は、悔しさを舐め続けた民衆の物語だし、命の価値に優劣つけられる世界で、最下層に置かれ続けてきた民衆の一人、人々の命の価値を肯定し続けた者が言う、「生まれないほうがよかった」はそのままにさせないよってことです。

だからこれは最後通告ではないのです。未来を変えていくため、今の状況を語ったということです。それはむしろ癒やしです。最下層にさせられてきた人の悔しさ・しんどさを知っている人があるという癒やしです。
つまりこうです。こうでないとイエスのしたことは無になります。


ユダ、キミは自分のことを、生まれないほうがよかったと自分で思うくらいかもしれない。社会を恨む思いがあるかもしれない。その気持ちを僕が受け止める。僕も同じだ。これからの僕らの死に方を見て、「生まれないほうがよかった」と思う人がいるだろう。僕ら自身も、どこかでそう考えてしまうくらい辛い未来かも知れない。でも僕は、自分も、キミも、そのままにはしておかない。クズどもと言われた僕たちの未来のために、闘うんだ。

 

イエスはユダの悔しさを一緒に味わったのだと、私は信じています。


だから…。「生まれないほうがよかった」って言ってもいい。だけど本当にそうは思わないでほしい。悲しみを語ることで「タフになって闘うのもいい、でも背負わないでよ、憎しみの呪い」(TAMIW、シャフィック・フセイン「HAFU(feat. Moment Joom)」より)。「どうしようもない連中」と揶揄された僕たちが世界を変えるんだ!誰も命の価値を侮辱されることのない神の世界が訪れるさ、その幻が、イエスとユダ、そしてずっと悔しさを舐め続けてきた貧しい人々の間に輝くんだ。


<参考資料>

最後に引用した歌のPVです。


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