【礼拝説教】明日へ育ってゆけ【無料で全文読めます】
<はじめに>
有料記事としていますが、全文読めます。
この記事は2022年2月20日@甲山教会の説教です。
この日は広島北分区交換講壇として、私は隣の甲山教会(世羅町)に伺いました。甲山教会の皆さん、ありがとうございました。
この度は、いつもの三次教会礼拝堂で話したものではないので、録画は撮っていません。
<聖書>
コリントの信徒への手紙一 3章6節
マタイによる福音書13章36〜43節
(※)分区行事のため、ここ数ヶ月で自分として大きな課題になっていた福音書を選ぶことにさせてもらいました。
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。
<説教本文>
「なつかしい人々 なつかしい風景 その全てと離れても あなたと歩きたい。」
もうちょっと今日話したいことに寄せて歌い直します。
「なつかしい聖書理解 なつかしい神の国 その全てと離れても イエスと歩きたい。」
実際には「全て」というわけではなく、神の慈愛がすべての人に行き渡るのを信じ、それを望むのをやめたわけではないのですが。しかし神の国の見え方や、それに至る聖書の読み方というのは、嵐吹く大地と時代のなか、神を見上げるなら、そのカラーが少しずつ変わって見えてくるのかもしれないのだな、と思わされます。
聖書理解というのは、だいたい誰かからの受け売りか、あるいはそのいくつかがミックスされたもので、完全オリジナルというのはなかなかありません。だから、慣れ親しんだ聖書理解というのは「なつかしい人々」という歌詞に重ねることができるわけです。
しかし私は、ある出会いによって、とても大きな問題を、いや、その問題はひとつではないので「問題集」(ちなみに「麦の唄」が収録されたアルバム名でもある)をぶつけられているような思いになっています。
もともと、私は今日の福音書箇所を、慣れ親しんだ解説本(注解書)になぞる形で理解していました。今日読んだ箇所は「解説部分」なのですが、当然もとのたとえ話との関連がそういう本には書かれてあります。もともとの話では、悪いものも一緒にいる、寛容であることを強調した話であったのが、今日の部分では悪の排除がテーマとなっていると言われます。なので、今日読んだ部分はイエスが言ったことではなく、福音書を書いた人が自分の理解を書き加えたとも解説されています。そして私は、これを基本的には納得して受け入れていて、この話は総合して「寛容」、意見が違う人も一緒に居ていいみたいなことをテーマに語らないとならないと理解していました。そしてそれはまぁいいことを言っているように聞こえるでしょうし、自分でも思うんでしょう。
しかし、「寛容であれ」というのは、私がそれを言ったならば、猛毒の副作用を持つ危険性があります。そのことをよくわかっていませんでした。次の文は、ついこの間のとある研修会で用意した自分自身について説明した言葉です。
私は、キリスト教徒の家庭に育ち、教役者であり、男性だと思われやすい見た目をし、男性と自認しており、異性愛者で、両親ともに生まれた時から日本国籍者でした。日本の教会に行って、割と何を聞かれてもあまり嫌な思いをせず(特別誇らしいというわけではないですが、存在そのものと深く関わるところで全否定される心配はそれほどなく)、答えられる属性を持っています。万人救済主義者で、同性婚や選択的夫婦別姓の実現を望んでいること、スノーボードやヒップホップ音楽、ロック音楽といった多少荒々しさを持った文化が好きというのは、教会によっては煙たがられる可能性はあるかもしれませんが、それでも他の属性がかなり「強い」ですから、浴びる攻撃は限定的で、それでアイデンティティが揺らぐことは今までほとんどありませんでした。
つまり。私が「寛容」という時に、自分自身の相当なマジョリティ性という楯に十分気づいていなかったのではないか。寛容になれるだけのある種の余裕というのがあって、それは自分の属性によってかなり手厚く守られたものでなかったか、ということです。
そりゃあんたが寛容であることは楽でしょうよ。別に直接傷つけられることなんかないし。「嵐吹く時代」って言ったってそれは歌の中や朝ドラの中のファンタジーか歴史もののストーリーのことであって。せいぜい、マッサンやエリーといった登場人物に朝10分程度、感情移入するくらいのことでしかない。そういうオレが書かれた解説通り「カムカムエヴリバディ、そのために寛容でありなさい」って言ってしまう。そうとう危ない。
「寛容」、いいことを言っているようで居て、それ自体が不正義を放置する毒麦そのものって可能性だってあるのです。ハッとさせられた、さっき言ったぶつけられた問題というのは、先日『福音と世界』に載ったある論考によるものでした。リンダ・トマス、シカゴ・ルター派神学校教授、ウーマニストである彼女の論文の最後の小見出し。
「毒麦を根絶やしにしなければならない」。
刺し貫かれました。
彼女は、最後の、ではないにせよ刈り入れが目前となっていて、私たちが毒麦を取り除く努力を惜しまないように呼びかけています。確かにイエスが生きた時代には毒麦を選り分けるのは難しい部分もあったのかもしれません。命あっての物種というか。そこでの部族主義は、生き残るためのものであったのでしょうが、この論考が現代大きくなってしまった毒麦、と指摘する「性差別、人種主義、クィアフォビア(性的少数者嫌悪)、ゼノフォビア(外国人嫌悪)、反ユダヤ主義」や「先住民コミュニティへの迫害」といったものの萌芽でもあったわけです。
そして、部族主義、自民族中心主義は短期的な、狭い範囲での生き残りにしか有効でないこともわかってきました。確かに、いま麦と毒麦を見分けるのは簡単です。世界も、キリスト教も。キリスト教の人種主義、キリスト教徒優先主義は実に長い間、神の国の情景について固定的なイメージをもたらし続けてきましたが、その慣れ親しんだ情景と離れて、イエスと歩き直す筋道を探します。
その筋道がまっすぐにされます。谷は身を起こし、山と丘は身を低く、そして道はまっすぐにされます。
集められて火がつけられるというけれど、でも、「火」って「神がいる」ってことでもあります。集められて、火。どこかで聞いたことないですか。ロクでもない連中が集まって束になっていたところに、火。どこかで読んだことないですか。友だちを失って打ちひしがれて閉じこもっていた連中が集まっていたところに、火が来るって。
聖霊の炎が私たちを、世界を包みますように。
<参考資料>
中島みゆき「麦の唄」
リンダ・E・トマス「ポスト・オバマ時代の米国における公共神学、ポピュリズム、人種主義 ーウーマニストの呼びかけ」(安田真由子訳・解説、『福音と世界』2021年11月号)
途中の自分自身を紹介した発表は以下の記事です。
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