【礼拝説教】モノじゃない何かを求めて【無料で全文読めます】
<はじめに>
有料記事としていますが、全文読めます。
この記事は2022年3月6日@三次教会の説教です。
<聖書>
エレミヤ書31章31〜34節
マルコによる福音書1章12〜15節
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。
<説教本文>
掟が刻まれるのは、石版ではない。一人ひとりの心なんだ、とエレミヤは言います。掟自体が変化してしまうのではない、と解説にはありました。「新しい契約」という用語を使ってはいるけれども、その本質は変わっていない。「新約聖書」という名称は新しい約束の聖書という意味だけれども、その本質は実は変わっていないということです。
しかし、形が変わっただけで、本質が変わっているように見える、そんな変化を持つものもあると思いますし、今日の預言書で言われていることも、そういった意味を持つ一つの例、と言えると思います。
身近な例で言えば、足が動きづらい人のために手でアクセルを入れられるようにした車、とかそうじゃないですかね。車として備えているもの、走るという機能は一緒ですけれど、その形、そのパーツの場所が変わることで運転できるひとが増えるわけです。あるいは電気のスイッチがでかいとか、シャンプーとトリートメントを触って見分けられるデコボコとか。小さなパッケージの違いで、中身に変化はそうないけれども、それが全員にとって使いやすく、それぞれの生活が少し楽になる。そういうものがあります。そして同時に生活を問い直されるという部分もあるでしょう。いかにこの世界が多数者向けにデザインされているかを知るきっかけになるでしょう。実は、形、パッケージによって、とっつきやすさというものに違いが出てしまうということはあるわけです。
エレミヤの生きた時代からそうだったんでしょう。掟の内容がいくら慈しみに満ちたものであったとしても、それが石版とか、特別な一冊の書物とかになり、神殿など聖所と呼ばれるところに置かれるようになると、その聖所から近い人・遠い人という差が出てしまいます。そして、近い人を聖なる者、遠い人を不浄な者とするような思考になっていく。遠いとレッテルを貼られた人は、自己卑下という仕方でレッテルをさらに塗り固めることでやっと生存を許可される。つまりどういうことかというと、その集団の多数者にとって都合の良いスポークスマンになることでやっと受け入れられる。
今から言うことは悪い例と思って言うことです。「自分は同性愛者ですが、聖書によると自分の抱く思いは罪であるのだと理解しています。しかし、こんな罪深い者にも神さまが出会ってくださったことに感謝して、謙遜に、権利を求めることを慎み生きていきます」。実際こういうこと、言わせてしまっているんじゃないでしょうか。この言葉は同性愛者を排斥する集団が、自らの排除の論理に目をつぶるばかりでなく、自分たちを寛大な者であると思い込むのに大変好都合です。
ぱっと見、「謙遜」は美徳に映りますし、厄介です。「モノじゃない何か」と言った時に、こういった「謙遜」の皮をかぶった自己卑下や、横暴な権力者への「従順」が、こういったものが推奨されてきた部分があるんじゃないかと思ったりするんです。あるいは、そのような自己否定を見ないふりする。自己否定する人々を見ないふりする中間層の多数者として振る舞う。そういった行動。天国といういつか行く良いところに注目し、地上の苦しみは見ないふり。天国というところに注目することが全くの無意味だとは思いません。例えば緊急性のあるところで応急処置的な止血としては有効だったと思うけれど、しかし、それは時に、持たないものの口封じとして作用されてしまった部分もあるのだと思います。
エレミヤの生きた時代からそうだったんでしょう。聖所に近い人にどうしても「特別」が集まってしまう。それが権力なのです。権力者なのです。もちろん、世界はもっと複雑な権力層の絡みを見せています。エレミヤの生きた時代であれ、イエスの生きた時代であれ、ユダヤ社会だけで世界は完結するものではなく、より強大な隣国という、もっともっとつよい権力層というのも存在していました。また、世俗的権力と宗教的権力が反目する部分というのもあったでしょう。しかし、ヘロデ王が神殿の大改修をしたと伝わっているように、権力同士が完全に敵対し続けるということではなかったと思いますし、なによりも、どちらも持たない人々がいたのは間違いありません。いくらもっと強いものがいると言ったって、何も持たない人々がいたのは間違いありません。
エレミヤは、この権力の構造を保持する副作用を持ってしまっている神殿やそこにある石版にではなく、それぞれの心に掟が刻まれるというパッケージの違いを語っているわけですが、実質、その内実を問い直していると言えると思います。掟の本来の意味、寡婦・孤児・寄留者、そういった貧しい人たちの立場をこれ以上貶めないという本来の意味を語るのが、掟の本来の意味を語るのがエレミヤの姿です。
そしてそこに、「律法の完成者」というイエスの姿、そして今日、荒れ野に向かって、そこから神の国の到来を語り始めたイエスの姿を重ねます。
荒れ野で語る意味がある。そう、ここにも恵みの雨は染み渡る!荒れ野とは、死の大地というだけではなく、ある人びとにとっては生活の場でした。少し草が生えていて、羊飼いたちが時にはそこに羊たちを連れてきていたそうです。その荒れ野でイエスが語りはじめたのに意味がある。誰にでも恵みは行き渡る。
イエスを特別な王にするというのではない、誰しもが特別なんだ、これが神の御心だ。私は、そういうメッセージをイエスの生き様の至るところから受け取ります。むしろ、イエスは荒れ野から学ぶ。自然から学ぶ。そういう荒れ野の生活だったのかもしれません。幼い頃から見ていたであろう野の花、空の鳥のことを思い出す。そういう思いに至ったのかもしれません。あの預言者が言う幻は、いつの日かの遠い世界のことではないのです。「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」、むしろそれを見る荒れ野・自然こそ解放区!
これを広げていくのがイエスの宣教なのだと、今は理解しています。
モノじゃない何か。モノじゃない何か。「決して必要以上は要らんねん」、だけど、「代わりなんぼでもおんねんちゃうねん。雑巾ちゃうぞ、人間は」(SHINGO☆西成「Ill西成Blues(Geek Remix)」より)。人間であるという、普遍的祝福の行き渡る世界。みんなで祝福を味わって生きられる世界、これが神の世界!これを求めるんだ。
紛争なんかもってのほかだぞ、わかんだろ!?
「モノじゃない何かを求めて」と「欲しがりません勝つまでは」は真逆だってわかんだろ!?
きっとイエスは今日、世界中の紛争地でこう叫んでる。きっとイエスは今日、世界中の紛争地を思う人々の中でバナーを持ち、こう叫んでる。
僕もまた神の子だ。辺境のこの声が世界を変えます。荒れ野に、恵みの雨を。そう求めて叫ぶ私たちのこの大荒れの心を神が用いてくださるように。
<参考資料>
SHINGO☆西成「Ill 西成Blues(Geek Remix)」
<説教動画>
もしよければ音声付きでもどうぞ。
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