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【コロナ禍における礼拝と音楽 情報交換会 発表原稿】「いのちの泉をサブスクでディグる」

0. この記事の説明

この記事は、2022年2月14日(月)開催の「コロナ禍における礼拝と音楽 情報交換会」で依頼された発表の原稿です。会の企画の皆さん、参加者の皆さんに感謝いたします。
割り当てられた時間が短かったために、事前に本原稿をメール配信していただき、当日はかいつまんだ説明に留めました。

脚注は、項ごとにまとめて(※)という形で出すことにしていますが、短いものは本文に括弧書きで入れています。
また、配信原稿は4までで、5は当日受けた質問から、これは書き込んでおかなくてはいけなかったという反省を含め、書き足した部分です。質問してくださった方に感謝申し上げます。


1. 教会は「新生」できるか

① はじめに/個人的な問題意識

そもそも、私は、この集会の最初の発表者の一人として選出されたわけが分からないくらいには礼拝や教会音楽について専門性を一切持っていない自覚がありますし、のちのグループトークの話題のひとつである礼拝配信についてはかなり消極的な展開しかできておりません(※1)。礼拝配信については、先に発表してくれた吉岡さんが録画・生配信双方のコンテンツについて日本基督教団最強クラスのスキルと経験を持っておられますし、この度の役割を視聴者の立場や少し背伸びしてレビュワーの目線で語ることと意識しています。視聴者という立場の人びとによって今はあらゆるコンテンツが育てられているのだと見受けています。配信者のスキルが上がることと同様に重要なのは、視聴者の見識と勇気であり、それの本質は、キリスト教界に合わせて言いますと、以前からずっと指摘されていたであろう「信徒の自立」や「信徒力」と言われるものなのだろうと思います(※2)。

私はここで自分の問題意識と重ねて、ある言葉を思い起こします。「わたしはファーガソンの路上に新生(ボーン・アゲイン)したのです」。この言葉は、『ヒップホップ・アナムネーシス』(山下壮起・二木信編、新教出版社。)に収録された、オサジェフォ・ウフル・セイクウ「ファーガソンの前線より」という説教に登場したものです。それは、ミズーリ州ファーガソンでの警察に対する抗議運動に指導的立場でなく身を置き、そこで出会った、それを主導する若者(彼らは教会が嫌う文化の中で生きています)にこそ神を見た、という信仰告白(※3)と併せて語られたものです。

人びとが持つスマートフォンの中の世界に、あるいはスマートフォンを持つ人びとの中に、教会は神を見出すことができるでしょうか。かつて「Jesus is on that Mainline」(例えば、Ry Cooder, Jesus On the Mainline)と歌われたそれを、Wifiに言い換えることができるでしょうか。彼らに教えるのではなく、彼らから学び、そして共に育っていくという教会のプランはどういったものでしょうか。そこに礼拝は、教会音楽は、どう関わっていけるでしょうか。

(※1)拙稿が『季刊ミニストリー』50号(キリスト新聞社)に掲載予定です。この寄稿の元となった教区教職研修会発表原稿は、noteにて公開しています。
     https://note.com/onohikaru03/n/n5dd565eaead0
(※2)たとえば2014年春の『季刊ミニストリー』で「「信徒力」をはぐくむ」という特集が組まれています。
(※3)「わたしたち宗教者が直面している問いとは、どうすれば若者が教会に来てくれるか、どうすれば教会がストリートに出ていけるかというものではありません。むしろ、神は腰パンの格好をしている、神は顔にタトゥーを入れている、そして、神はクィアであることを見出すことができるかということです。我々は神がすでにそこにおられることを見出だせないために、若者たちのために何もすることができないのです」(91頁)


② Covid-19の中で/「個」の礼拝の時代の到来?

近年のCovid-19により、強制的に個別に祈ることになりました。それは多くの教会にとって大きな痛手でしたが、それが痛手なのは、教会がこれまで見失っていたものに気づいたから、という側面もあるのだと思います。今までの教会が「特定時刻に出かけられる「強い人」向け」というところを払拭できなかったのだということです。この「強い」には「日曜が休みを取れる業種を選ぶだけの余裕」が当てはまることもありますし、「週日に体力やメンタルが削られすぎない会社内での地位」ということもあり得るでしょう。

ですから私は、教会側が、教会の特定の礼拝(多くの場合日曜午前)に出席することを信仰に基づく行動として特別に推奨、優先的なものとするのには反対です。本当に不思議なんですが、職務上の規定が関わっていたとしても人助けをしなかった祭司とレビ人はマズイという話を年一は読むのに、どうして特定礼拝に特別の価値を置くのでしょうか。むしろ教会の機能とは、個別に祈ることができるよう(あるいは祈りに基づいた行動を各自ができるよう)トレーニングすることだと思っています。公開の、自由参加可能な練習会が公同礼拝と考えますし、「槍が降っても主日礼拝を死守する」というスタンスは、教会に来ることに特別の価値が置かれて、そこで信徒間の順位付けのような印象を完全に無くすのはかなり困難でしょうし、本末転倒的でマイナスだと思っているくらいです。

日曜日午前に働く多くの人があって、この社会は存続しています(※4)。そして、教会の判定ではこの人々が「強い」側(例えば役員など)に入る事例は少ないでしょう。社会全体で見ても、この人々が最も「弱くされた人」を数多く含む可能性は十分ありえます(※5)。週一回、特定の日の礼拝のプログラムを神聖化するのをやめにして、各自が好きな時刻に祈れるシステム設定や、それぞれのところで祈るためのサポート機能を教会は用意する責務があるのではないでしょうか。

(※4)教会として言うと、この人々によって私たちは礼拝できる状況にさせてもらっている…ということでしょう。(参考:山口里子『イエスの譬え話2』、新教出版社、204頁。)
(※5)「外人って日本から奪ってるだけ? 弁当屋で働いてんじゃないの? コンビニで僕らを見たんじゃないの?」(Moment Joon「CHON」より)


③ 「地において 主を賛美せよ」

「地(下鉄)において 主を賛美せよ」。私は地下鉄のある街に住む予定はしばらくありません。ただの言葉遊びです。しかし、別に地下鉄というか移動中に限らず、「吐く息すべてが賛美(吸い込む息すべてが恵み)」であるというような視野を「地において 主を賛美せよ」(詩148)という歌は与えてくれると思います。私としては、これは単なる聖句の切り取りを越えて、イエスの宣教全体、例えば身近な譬え話の題材という事柄からも感じられることです。

一方で、連帯性というのはこう言う私ですら心配なところもあります。しかし、これも社会的「強者」としての心配なのかもしれません。私は、キリスト教徒の家庭に育ち、教役者であり、男性だと思われやすい見た目をし、男性と自認しており、異性愛者で、両親ともに生まれた時から日本国籍者でした。日本の教会に行って、割と何を聞かれてもあまり嫌な思いをせず(特別誇らしいというわけではないですが、存在そのものと深く関わるところで全否定される心配はそれほどなく)、答えられる属性を持っています(※6)。何の心配なしに人とのつながりを志向できるということ自体、強さを背景にしているかもしれません。今まで教会が求めてきた「つながり」の多くが「強者」同士がつながることに結果的になっていたのかもしれないと思い返したりもします(「弱さ」でつながると言っても、それが限定的だったかもしれないということです)。「弱い」とレッテルを貼られている人と共に生きるのが連帯であり、それは最低限彼らの生を圧迫しないということがセットになっていないとなりません。個人的には「個の確立」という視野なしには連帯というものもありえないのであり、単に同じ空気を吸えば連帯している気になるという病に教会が陥っていなかったか気にかかります。

(※6)万人救済主義者で、同性婚や選択的夫婦別姓の実現を望んでいること、スノーボードやヒップホップ音楽、ロック音楽といった多少荒々しさを持った文化が好きというのは、教会によっては煙たがられる可能性はあるかもしれませんが、それでも他の属性がかなり「強い」ですから、浴びる攻撃は限定的で、それでアイデンティティが揺らぐことは今までほとんどありませんでした。


④ 「個」でありつつ共同体性/連帯性を持つには

「離れていながらつながる」と語るときに、ある種のエモさ・高揚感を得られるのではないか、そしてそれは、私たちが「身体性」と言っているものによって得られる感覚と少し似ているのではないか、と思います。「(大嶋)重德くんのプレーを通して神の栄光が現れますように(※7)」という祈りは、大嶋重德さんが高校生の頃、クラブの試合に行く前に教会に寄るよう誘ってくれた牧師が、毎回彼のために祈ってくれたものだそうです。この祈りに触発されて、大嶋さんは試合直前、ベンチでタオルを被って自分のプレーを神に捧げるという趣旨の祈りをするようになったと語っていますし、そのとき「いまから考えるとずいぶん格好つけていますが」と付け加えており、これはある種の高揚感であったと振り返っているように感じられます。そしてその時、自分のために祈っている教会のメンバーとのつながりも感じていて不思議はないように思います。

もう一つ、私の経験です。「身体は離れてもスピリットはつながっていると信じます」、これは、かつて父親が住んでいたミクロネシア連邦ポンペイ島で現地教会付属高校の校舎の修理をしたワークキャンプ(※8)のお別れパーティーで現地の牧師が祈った言葉です。自分の触ったものがそこに残るということもありますが、この祈りで神が間に立つという思いに満たされ、ある種の高揚感を覚えたのを記憶しています。この高揚感はあの島の写真を見る度に思い出されます。つまり、身体性や連帯感というものも、必ずしも顔を合わせていないと得られないというわけではないと考えています。

そして「離れていても一人ではない」という命題は、基本的に自信を持ってもらうという方向性のものですから、「信徒の自立」「個の確立」に寄与するのではないかと感じています。ただ、紹介した事例のうちの後者に関しては、私が両親をそれぞれ約20年前、10年前に神のもとに見送っていて、そう考えないといけないように若い頃から追い込まれていたということが影響しているかもしれませんが。

(※7)大嶋重德『若者と教会』、教文館、2016年(2版)、90頁。
(※8)ポナペ・ワークキャンプと呼ばれ、現地に派遣された宣教師のサポートツアーとして繰り返し行われました。


2. 音楽プレイリスト(セットリスト)と礼拝

① 離れながらつながっているを味わう

さて、離れながらつながっているということを味わえるものとして、主に他教派で多い事例かと思いますが、枝の主日(棕櫚の主日)に使った葉を十字に折って「しおり」にするということがあると思います。「受洗記念の聖書」なども近いものがあるかもしれません。そして、似たような効果を持つものとして、教会音楽もサブスクリプションやYouTubeを利用して何かしらの連帯性を志向していくことは、各自が主体的に音楽に触れるきっかけにもなり、「個の確立」という視野に関しても寄与する可能性があると思います。


② 礼拝≒プレイリスト?

先日、三次教会の青年にJ. S. バッハの「クリスマス・オラトリオ」について解説してもらいました。世俗音楽とすでによく知られていた賛美歌の旋律をサンプリングというか引用というかする形を割と多く含んでいる組曲だそうです。また、教会の日々の礼拝も、聖書、賛美歌集や他の音楽曲集からその都度語られる言葉(奏でられる音楽)のプレイリストを作っていく作業に似ていると思います。すでに『礼拝と音楽』のこの度の特集でも触れられていますので、私などが今更言うことでもないのですが、同じ曲でもどこに置くかによってその意味が変わってくることはありえますし、そのような狙いを持って選曲している礼拝コーディネーターをしている方が多いと思います。以前、関西学院大学の神学セミナーにおいて水野教授が、CCMは概してキリスト教神学の触れ方の偏りが大きいのではと言っておられ(※9)、私もそれは確かに…(喜びの押し売り感あるよな…)と思うのですが、それは朗読聖書、前後に置く曲や、説教で何を語るかという礼拝全体を考慮することでかなりカバーできるのでは、とも考えています。

(※9)ヒルソングの楽曲を数曲紹介し、これらの曲がイエスとの近い関係をテーマにしているという傾向を示した後、「キリスト教信仰の中の「ある部分」が置き去りにされていないか、語られるべきなのに語られていないことはないのか、という疑問を持ちます」と続けています。(水野隆一「キリストはいくつにも分けられてしまったのですか(Ⅰコリ1:13)」、『音楽と宣教と教会』、キリスト新聞社、27頁。)
ちなみに近い悩みが、神学校時代、『讃美歌(54年度版)』を主に使用していた教会に通っていたときにもありました。訓練として賛美歌選びをさせてもらった期間がありますが、2~3節で苦しみや世界の不正義を歌っていても、最終節で大体解決しちゃう問題です。


③ 音楽サブスクリプションのプレイリスト機能を利用する提案

近ごろはミュージックステーションなど地上波音楽番組でも、サブスクリプションを前提とした「プレイリスト企画」というものが放映されていたりします。出演者がテーマに沿った複数のおすすめ曲を、曲順などを総合的に考え「プレイリスト」を作成して視聴者に提案していくというものです。


「地上のどこでも」「離れていてもつながっている」「音楽・賛美歌・クリスチャンミュージック」「個の確立」というキーワードから、サブスクリプション(あるいはYouTube)で聴けるプレイリストや、単曲でもおすすめのチューンを提案することを利用して、各自が主体的に地上のあらゆるシーンにおいて、音楽を通して神の国をイメージできるようにサポートしていくのはいかがでしょうか。


私は特にクラシック分野に触れてきた時間が短く、たとえば「メサイア」にしても、「どの指揮者が(どのような理由で)おすすめできる」ということは一切わかりません。CCMについても圧倒的多数である外国語詞の読解力に難がありますので、「ディグる」のに大変苦労します。また、これまで興味が薄かったジャンルのCDを新たに買い、外付けディスクドライブを装着、PCに取り込んで、スマートフォンに移し、視聴…するのは正直大変です。しかし、アップルミュージックは使っていて、そこに入っている曲であればあまり苦労なくアクセスできます。こういったきっかけで他ジャンルの作品についても触れることで、もともと愛好していたジャンルの視聴に役立つ可能性もあると思います(※10)。

また、教会に寄ってくれる中学生はSpotifyの無料プランを利用しているようで、「小野さんが聴くアーティストって誰?」と私のおすすめを一度は聴く気がある様子です(※11)。「同じ音楽(プレイリスト)を聴いている」という連帯性もある程度得られると思います。

そして、プレイリストは誰でも簡単につくることができますので、詳しい方に一例とその例の何が良いのかや編集の意図を示してもらえば、視聴の楽しみが増えるだけでなく、自分なりの編集へのハードルが少し下がります。そしてそれは自らキリスト教音楽沼に潜っていく(あるいは他ジャンルもキリスト教的視点で考察を深めていく)ということにつながっていくという期待が持てるように思います。そしてそれぞれがアレンジしたプレイリストのエモいポイントなどと評価し合うことができるようになっていけば、教会側が提供する礼拝などのプログラムに参加するということを越えて、先ほど言ったキーワード(「地上のどこでも」「離れていてもつながっている」「音楽・賛美歌・クリスチャンミュージック」「個の確立」)にそれぞれ触れながらキリスト教音楽界を盛り上げていく一助になるのではないか、とうっすら考えています(※12)。

(※10)安直な例ですが、クラシック音楽をサンプリングしたポップ音楽にふれる際、元のクラシック音楽を知ることで、より深くその作品の世界に入っていける道が拓けることもあるでしょう。
(※11)Moment Joon「TENO HIRA」を紹介しましたが、あまりヒットしなかったようです。残念。
(※12)こう言っておいて自分で何もしないのもアレなので、素人ではありますが、「川べりの散歩」をテーマにしたプレイリストを作成してみました。末尾に自分の意図もメモとして残しておきます。


④ 予測される派生効果

これは、ある派生効果を持つ可能性があるかと思っておりまして、それがより強力かもしれません。現代は、誰でも(例えば趣味として)音楽配信ができる時代です。しかし、埋もれやすいということでもあります。新しいアーティストの曲やチューンアレンジもこういったプレイリストの中に含めたり、単曲としてでも紹介したりすることができれば、新人・成長途中のアーティストにとって励みになると思います。もちろん無理に褒める必要はないと思いますが、課題を示したレビューによっても、今後を見守りたいファンを獲得できる可能性はあると思います。

それによって再生回数がある程度でも増えてくればチューンコアなどの利用料(年5000円程度/アルバム)が収益で返ってくるようになるかもしれません。これは現実的に創作活動を続ける糧になります。ユーザーもCDを無理に買ってあげなくてもよく、追加課金は必要ありません。ポップ音楽の要素を持った日本語キリスト教音楽配信は正直まだ幅が狭いように思います。英語詞の作品についても、先述の水野教授の指摘通り、また自分で見て(英語相当苦手なんで実際は違うかもしれませんが(※13))クリスマスアルバムは割とあるけど他はあまり…というような偏りも感じます。先ほどお話ししたような環境から、アーティストが挑戦を可能にする土壌へと発展し、日本語CCMで「罪の告白」や「社会の不正義」にフォーカスする作品が生まれ、それがジャンルを代表する新たな“クラシック”のひとつと呼ばれる未来を実現できるかもしれません。

(※13)大学1年の英語では自分なりにかなり努力をしましたが、60点台でした。でもこれで、「やりきった」と本当に嬉しい思いに浸ったほどですから、苦手意識とスキルはお察しです。


3. 参考資料

<書籍>
山下壮起・二木信編『ヒップホップ・アナムネーシス』、新教出版社、2021年。
山口里子『イエスの譬え話2』、新教出版社、2017年。
大嶋重德『若者と教会』、教文館、2016年(2版)。
水野隆一「キリストはいくつにも分けられてしまったのですか(Ⅰコリ1:13)」、関西学院大学神学部編『音楽と宣教と教会』、キリスト新聞社、2021年、7〜41頁。

<楽曲>
Ry Cooder, Jesus On The Mainline
Moment Joon「Home/CHON(feat. 蔡忠浩)」


4. プレイリスト「川べりを歩く」について

現在住んでいる三次市は川の町です。川をテーマにした賛美歌は黒人霊歌をはじめとして数多いですが、J. コーン『十字架とリンチの木』に収録された梶原寿による訳者あとがきの、このような出来事は現代日本も無関係ではないという趣旨の言葉が心に残っています。いくつかの黒人霊歌やそれを元にした作品に、日本をはじめとして他のところにおける社会の歪みにも思いを持っていける曲も加えたプレイリストを作ってみました。私としては川べりを歩く時、思い出したい歌の数々です。


5. 質疑を受けての補遺

質)この提案をどのような方法で実現できるか。教会のメンバー(スマートフォンに慣れていない高齢者を多く含む)にどのように広報するか。

応)当教会の実践例としては、プレイリストではなく、単曲のおすすめチューンではあるのですが、クリスマス・イブ礼拝の配布物で「YouTubeでもう一度聴く」ということを意図した曲ガイドを出したことがあります。例えば、私は「急ぎ来たれ、主にある民」はペンタトニックスのバージョン、特にブリッジのオリジナルメロディを入れ込んでくる辺りが好きなので、「o come all ye faithful pentatonix」と検索すれば視聴できることと、自分としてのおすすめポイントも併せて書きました。

他には、『礼拝と音楽』の巻末の聖書日課に関するガイドに賛美歌や奏楽曲の例がありますが、そこに、音源を聴くなら誰(演奏者・指揮者)のものがおすすめかを一行加えるだけで変わってくると思います。プレイリストも似たような広報となってくるのかなと思います。


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