教職研修会発題「JESUS on The Mainlineであるならば…」
0. この投稿の説明
10月19日(火)、私が所属する西中国教区の教職研修会にて発表したものの原稿です(一部原稿提出時から変わったところがあったので、そこは編集しています)。自分なりの宣教姿勢のある側面を話すものになったと理解していますので、公表しておきたいと思いました。
2021年11月5日、読み返してみると打ち込みミスのようなところがありましたので、編集しました(発表時の元原稿から間違っていたようです。すみません)。
1. はじめに/日本基督教団におけるインターネット伝道活動/おおまかなスタンスとして考えていること
Covid-19の感染拡大から、いわゆるメインライン教会においても礼拝配信をはじめとしたインターネット伝道活動が盛んとなった。教区内においても、礼拝について多くの教会が何らかの配信を行っている。スマートフォンひとつで配信可能な世界となっている状況にあって、インターネットでの伝道活動をどのように捉えるか、課題の一つとなっているように思われる。
ところで、教団内におけるインターネット伝道活動についての位置づけは、「次善手」あるいは「傍流」というところにとどまっている印象を受けているのは思い込みすぎであろうか。直接出会うことを重要視してきた教会の方向性は私の中にも経験としてあり、インターネットを介して出会うということへの忌避感というものもなんとなく持っていたのが正直なところである。しかし近年、事情はさまざまであるが(教会や教会員が原因の場合も珍しくない)、リアル教会にいけない悩みを抱えている人が思いの外多いということを知った。私がそれを知ったのはSNS上であり、そこでそのような人々が励まし合っているという状況を見たのである。その人たちの存在を知りながら、これを「次善手」としてしまうことへの強烈な違和感があると言わざるを得ない。クラシック宗教音楽、その技法を利用した賛美歌は礼拝での使用が可能であるが、大衆音楽(ポップス、ロック、ヒップホップなど)の要素を持ったもののうちのいくつかが礼拝後のお楽しみ会に留め置かれているのとよく似た形に映る。音楽など、いわゆる「趣味嗜好」に分類されるものであっても、実際のところそれは実存と深く関わっているものであるために、そのものを「次善」とされるとき、落胆や怒りといった心情が出てくるのは不自然ではないし、それは義憤であると思われる。このような教会における文化の緊張関係は他についても同じで、メインラインカルチャーとサブカルチャー/カウンターカルチャー全般で見えることであると感じている(「いのりフェスティバル」などの取り組みはその一端を示していると思われる)。
インターネットというものはそれ自体がある種のサブカルチャーのようであるし、(どのような事情であれ)リアル教会に行けない人にとってはそれが全てであるとも言えるであろう。「次善」的なものとしてしまうことへの問題性はここにも当てはまると理解している。
2. 三次教会での状況
とはいえ、三次教会はインターネット伝道活動について積極的とはとても思われない程度のコンテンツしか持っていない。現状、礼拝説教を録画しなおして、YouTubeにアップロードしているだけである。教会ホームページにはオンライン会議アプリを利用しての個別祈祷などが可能である旨を広報しているが、問い合わせはない(結局そのような祈祷の申し出は電話や教会への訪問である)。現在の礼拝配信の状況は、①他教会の事例で配信サポートをする事の多い役員が比較的遠方に居住している、②牧師家族(子)がその発達段階(3歳)から見て、配信中に機材を触る/映り込むなどしてしまう可能性がかなり高い状況であり(実際録画を妨害された経験は数え切れない)、安定した配信は不可能であると判断していることによる。一例として、天井や壁からのカメラを利用する方向があるが、そのような機材を整えるのは資金面でかなり苦しいと言わざるをえない(また、そのように整えても幼児(あるいは児童となった)子が映り込む可能性はゼロにはできない)。
3. 「慣れ」の問題
インターネット配信礼拝ではその場への一体感が薄いという感想を聞くこともあるが、これについては「慣れ」が大きいのではないかと考えている。リアル教会も実は同様で、新来者が初めての礼拝に最高に馴染めたという感想を持つとは約束されていない。たいていそのような馴染める経験は複数回の礼拝経験である程度の慣れ(余裕)を持つに伴って少しずつ増えていくことを教会としても期待しているのではないだろうか。例えばプロテスタント信徒がカトリック教会や聖公会の礼拝に参列した場合も似たようなことがあるのではないだろうか。「また司祭と共に」と祝福を返したり、式文中の「イエス・キリスト」で会衆が礼をしたりするのに初見で完璧に乗れたという経験を持つ人はそういないであろうし、「主の祈り」の翻訳が違っていて(違うのを知っていて、一度自分の教会の礼拝で使ったことがあるにも関わらず)戸惑ったことも個人的な経験としてある。特定の礼拝形式に「慣れ」というものが求められる部分はもともとあるのではないだろうか。
それは別ジャンルでも同様である。喫茶店や居酒屋も、「勝手がわかる」ようになるまで多少の時間を要することは珍しくない。また、インターネットという点に共通部分をもつところとして、インターネット将棋に関する個人的な経験を紹介したい。私は将棋が趣味で、タブレットやスマートフォンでインターネット将棋を指すことがある。棋力は中学生のころ地元の道場で「二段くらい」とされていた(現在も日本将棋連盟公認アプリで二段に収まっている)。中学〜高校生での二段は、プロ登竜門の奨励会に入ることは逆立ちしても不可能であるが、高校総文の団体戦県代表チームに居て不思議でないくらいではあり、趣味としてはそこそこのレベルと言える。しかし、長らくインターネット将棋アプリを用いることをできずにいた。それは、コンピュータ画面、タブレット端末で将棋盤を見たときに、どうも盤面が遠く感じ、局面を十分に把握し考慮を深めることができない気がしていた。しかし、しばらくやってみると、そのようなストレスは次第になくなっていった。つまり、「ネットではいまいち集中できない」原因については、「慣れ」の問題を多く含んでいる可能性がある。
とは言え、将棋には駒の工芸品としての美しさや対局姿勢、自信のある手に「指がしなる」様子など、インターネット対局ではどうしても味わえない部分があるのは確かである。(好手を指せる力としての)棋力とは直接的な関係は薄い、こういったところがこの文化の最も楽しいところであると考えている将棋ファンも多い。そういうところから言えば、礼拝についても臨場感といったものを重要視する信徒がいるのは確かなことであろう。
一点追記しておく。「逆を言えばリアル礼拝も慣れれば大丈夫」というのは、その通りではある。しかし、それは「出かけていく神」のイメージと合致しないのではないか、と考える。また、「リアル教会に行けない」人々を教会が作り出してきてしまった側面を否定できない。そういう意味で、「今までの功労者を置き去りか」という批判に対しては、構造のみに集中した極端な言い方ではあるが、「功労者であるということは、人を追い出してきた機構の中心にいたということだ」と返すことになるだろう。人の実存に深く関わるもののうち特定の事柄を「次善」とすることによって、すでに置き去りにされてきた人々がいるのである。民族ルーツや性自認、性的指向などと相似のこととして、文化についても、自分にとって大切なものを「隠しておくように」「持ち込まないように」とするとき、「あなたは良いキリスト教徒ではない」というレッテル貼りの意味づけを持ってしまうのだと思う。それによる落胆や怒りといった心情に、「それはまだ〇〇と比べて大したことはない」と決めつけることは誰にもできないだろう。
4. ミッシオ・デイならば「JESUS Is on The Wi-Fi & LAN」
さて、神は教会に先行し宣教するという「ミッシオ・デイ」という理解が1950〜60年代に使われるようになってから長い時間が経った。この言葉の中には、教会が宣教地の文化を破壊してきたことの反省も含まれていると理解している。しかし、最初に述べた音楽を一例としても、教会の中では、慣れていない文化を避けがちの状況は繰り返されてきたのが実情と思われる。また、「慣れ」の問題はあるにしても、臨場感といった部分に重きを置きたい人がいるのは個人の感覚として当たり前であり、そういった「言葉」以外の部分で信仰を深めることができた経験を持つものもいるかもしれない。しかし、それが唯一の道なのであろうか。「ミッシオ・デイ」は教会が思っているよりも、神の宣教はしなやかで広いということを意味すると理解している。神の働きを教会が規定できないということである。そうであれば、インターネット配信礼拝が「十分ではない」と言うのは個人的な感想にとどまるものであり、その人にとってそうだったということで、他者の感覚については何も束縛しないはずである。先行し宣教される神があるとの宣教理解によれば、基本的には何で救いを実感するかを他者が規定することはできない(差別的なものを除く。ルカ18:10〜14)。神はそこにはいないと言うことはできないからである。
かつての教える・教えられるという枠組みを超えてキリスト教神学全体・教会を大きく変えてきたのは、解放の神学をはじめとする第三世界からの呼びかけである。その世界での文化は、西洋的キリスト教から忌避されるような要素も持っていたのであるが、「ある文化を見下す時に神を見失っていた」という気づきをキリスト教世界は経験してきたと言える。文化との出会いによってむしろキリスト教は「新生」してきたはずであり、インターネットでは新生できないと誰が決められるであろうか。教会の語る言葉を直接聞かなくても、あるいは聞いたことがごく一部であっても、優れた霊性を持ちうるという宣言は、イエスの宣教から数多く受け取ることができるし、その後にしても、例えばペトロとコルネリウスの物語に息づいていることであろう。「真理との出会い」がこれまでのスタンダードとは違っていても、そこで本質は損なわれることはないというメッセージは聖書に数多い。
Jesus on The Mainlineという歌がある。これは「イエスが電話に出てくれるから悩みや望みを何でも話してみよう」という作品で、ライ・クーダーのチューンが最も知られているであろうか。この歌と同様に、イエスはインターネットでも私たちに出会ってくれると期待するのはそれほど無理なことだろうか。
5. 限界のある中で/良い配信者は視聴者がつくる!
とはいえ、2で述べた通り、各個教会として積極的にチャンネル運営やZoomでの祈り会などを行うのは技術的に難しい場合もある。しかし、それですぐに時代についていけないとされるのではないと思う。というのは、アナログでも同様であるが、何であれ発信者にはフォロワーが必要である。特にインターネット上ではフォロワーは人数として可視化され、その多さが発信力に即繋がる印象を与える。実際視聴回数が多ければ検索上位に出てきやすいし、検索者が視聴してみたい心理となるであろう。自分で発信できるのは悪いことではないが、良い視聴者として存在するだけでも、キリスト教インターネット発信を支えることは可能である。実際、そこがいわゆるメインライン教会の現在の「弱点」ではないか、と思う。例えば、キリスト教プロテスタント関係の日本語動画が多くアップロードされているYouTubeのチャンネル登録者数で多数を持っているのは、「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」(登録者6.2万人)であろう。「キリスト教」や「聖書」「教会」でチャンネルを検索してみたが、万単位の登録者数を持つチャンネルは他に「ごうちゃんねる」(2.75万人)、「松本牧師のYouTube聖書講座」(1.17万人)くらいしか見当たらなかった(カトリック関係では「カトリック関口教会」(1.55万人)、「聖イグナチオ教会 事務室St.Ignatius Catholic Church, Tokyo」(1.22万人)がある)。ハーベスト・タイム・ミニストリーズについて、実際のところメインチャンネルの動画の再生回数はチャンネル登録者数に比してそう多いとは言えないのではあるが、検索上位に出てきやすいもののひとつとは言えるであろう。しかし、主な出演者・中川健一の聖書観・神観・救済観について個人的には全く同意できないことが多々あるし、特にジェンダーやセクシャリティに関する理解ははっきり差別的であると言わざるをえない。近年は陰謀論との親和性も強いと指摘されており、このチャンネルが「プロテスタント系」とくくられうるYouTubeコンテンツでトップクラスの登録者を持つという状況は、深刻ではないだろうか。また、次に登録者が多いと書いた2チャンネルについても、特にコメントを見ると、視聴者層は傾向として排外主義的・原理主義的なものを持っているように思われる。ある人が教会から見て十分な触れ方をしなくても霊性を養えるよう神は先行すると先述した。であるなら、キリスト教にふれるのが初めての人がある動画を見た際、その問題性に気づけることもあるだろう。しかし、例えば差別を再生産する方向性を持った動画について、判断を初めて検索した人に完全に任せるのは問題であろうと思われる。人種差別の酷い社会に育っても、差別者層出身の差別者に与しない者はいたが、彼らが受けていた教育はその多くが差別的社会機構を継続するためのものとなっており、その教育によって差別者がつくられていた面は大きいであろう。
さて、日本基督教団の教会でYouTube収益化等の基準である1000人のチャンネル登録者数を持つのは「日本キリスト教団聖ヶ丘教会」と「霊南坂教会東京」くらいである(「松本牧師〜」の主たる出演者である松本章宏は日本基督教団教師(在外教師)であるが)。漠然とした言葉(「キリスト教」など)で検索しても、なかなか上位に排外的な傾向、原理主義的な傾向ではない「キリスト教会内の人」の動画は上がってこないし、視聴されづらいというのが現状であると考えている。この原因として、ゆるやかなサポートをする人が少ないということがあるのではないか。それがそのまま、先述したように「弱点」となっており、インターネットで新来者・初学者を危険なコンテンツに晒してしまっていることになっていないだろうか。信頼できるチャンネルにピンポイントでアクセスできる検索ワードをガイドすることができるならば、この状況も少しずつ変えられていくと考えている。
さてそこで、動画作成スキルが十分でない人、直接的な配信活動をミッションと考えていない人も以下の行動によってインターネット伝道の世界に関わることができると提案したい。むしろ今、この視点が求められているように感じている。
私たちは出版物について同じことをしているのである。業界雑誌、新聞、「本のひろば」等で新刊をチェックし、直接読むか、時間がなければ書評を読む。新来者や電話の問い合わせを受けたらおすすめの入門書を紹介する。ざっくりと出版社や著者で、これならばカルト的な言説はないと信頼して、読んでいない本だったとしても「大丈夫と思う」と伝えたりもするだろう。説教などで注目の本(あるいは著者)を紹介する。本で言うところの業界誌にあたるものがTwitterやFacebookといったSNS、書籍は動画、出版社や著者はチャンネルである。出版物でしていることを動画ではしないという理由は特にないと思う。まして玉石混交なのであればレビューがより重要な価値を持つ。新来者にとってはじめに手に取りやすいのは、もはや書籍ではない(書籍に価値がないと言っているのではなく、書籍への興味、キリスト教全体への良い興味を持ってもらえるように動画や配信のコンテンツにも詳しくなりましょうということ)。子どもたちの話についていけるように「鬼滅の刃」の登場人物名くらいは覚えておこうとするのは、教会で子どもたちを迎える大人としてとても健全な努力である。同じような意味を持った努力として上記の事柄が動画配信についても求められていると思われる。
6. チャンネルウォッチングレポート
最後に、個人的に一年あまりYouTube、TwitterといったSNSを中心としてインターネットにおけるキリスト教世界で見て回ったもののうち、特徴あるYouTubeチャンネル、コンテンツをご紹介する。何かの参考にしていただければ幸いである。
① 「イクトゥス・ラボ / Ixthus Lab」 & 「ぼやき牧師|富田正樹|Masaki Tomita」
日本基督教団におけるインターネット伝道に関しては、富田正樹(同志社香里中高/徳島北教会)がホームページ「iChurch.me : 三十番地キリスト教会」(https://ichurch.me/2021)の運営をはじめ、先駆者的働きをしている。彼を紹介せずにこの項は始められないであろう。オリジナル・サイトに書かれていたものを読み、「救いを実感した」と公言する者もある。さて、現状富田がYouTubeにおいて運営メンバーとして関わっているのは上記の2チャンネルである。イクトゥス・ラボはリベラル系キリスト教初学者向けのQ&A、ぼやき牧師のチャンネルは徳島北教会の礼拝配信に加えて、カトリック信徒やリベラル福音派信徒を加えた対談も展開されている。
② 「霊南坂教会東京」
教団霊南坂教会のチャンネル。このチャンネルの特徴はなんと言っても「子どもの礼拝」にあたる子ども向けコンテンツが週1回リリースされることである(「みんなのれいはい」シリーズ)。内容は短い礼拝(賛美歌・聖書・メッセージ・祈祷・祝福)に加えて分級にあたるようなお楽しみ動画。3名の担任教師を主な出演者として、大食いチャレンジ・クッキング・ゲーム・教師の飼い犬が公園で変装した飼い主を見つけられるかどうか…などさまざまな内容が入っている。主任者の後宮敬爾教師もノリノリでふざけているのが見どころ。大人向け礼拝も配信技術が高く、音声等も聞きやすい。
③ 「関野和寛牧場」
元日本福音ルーテル東京教会牧師、ミネソタ州ミネアポリスにて病院チャプレンとして奮闘していた(〜2021年9月)ロック牧師、関野和寛のチャンネル。動画配信は頻繁ではないが、教団と関係のある(タブロイド紙「こころの友」で連載を持っていたなど)教役者で最も有名な人物のうちの一人であると思われる(例えば、テレビ朝日「大下容子 ワイド!スクランブル」のなかのコーナー「ワールドニュースペクター」にて紹介された経験もあり)。配信者の経歴を紹介しやすく、新来者へのおすすめには適していると思われる。最近は手に取りやすい価格帯の書籍を多数出版しているため、リアル礼拝に来られない人を書籍へつなげるという意味でも◎(FEBCの新シリーズも始まっている)。
④ 「yourchurch」
単立教会ユアチャーチのチャンネル。いわゆる福音派と呼ばれるグループに多い礼拝形式であるが、語られる内容としては神の公正を地上に実現するという視野が含まれており、排外的原理主義では全く無い。このチャンネルの特徴は、多くのコンテンツが英語・日本語の二ヶ国語の配信となっていることで、日本語が母語でない人にも勧めやすいと思われる。二ヶ国語配信であることの影響もあるのか、語られる言葉が複雑すぎるということがないのも良いポイントであろう。礼拝コンテンツは動画一覧のページに載るのは2週間程度で、その後は限定公開設定となるが、再生リストからチェックできる。
⑤ 「東八幡教会−星の下−」
東八幡キリスト教会(日本バプテスト連盟)のチャンネル。内容は主に礼拝ライブ配信とアーカイブとして聖書朗読および礼拝宣教(説教)部分を切り取ったもの。アーカイブには字幕あり(直接埋め込みではなくYouTube機能として)。この教会はインターネット会員プロジェクト「星の下@東八幡」を展開している。近頃、「オンライン教会」と言ったような形で、インターネット会員による教会活動の展開はいくつか聞かれることもあるが、この教会は牧師(奥田知志)に著書が多いほか活動もメディアにてよく報道されているため、個人的には信頼できると考えているし、人に勧めやすいと思う(それぞれで教会の活動に賛同するかを判断しやすい材料が揃っている)。
⑥ 「日本基督教団高槻日吉台教会」
教団高槻日吉台教会のチャンネル。特徴は、現主任担任教師が個人で登録者数2500人以上のYouTubeチャンネルを運営しており(「Revyaslife吉岡恵生 牧師の日常 レブヤスライフ」https://www.youtube.com/c/Revyaslife)、それにより機材などが整っているのか、配信技術がとても高いことが挙げられる。また、Covid-19収束後もインターネット配信をできる限り継続することを表明している。牧師のメッセージは今やワールドスタンダードになりつつあるプロジェクターで関連映像や文字を見せながらのスタイルで、配信での視聴でも情報量が少なくならないように工夫されているところも「配信を置いていかない」という意識の表れか。
⑦ 「日本基督教団 鈴蘭台教会」
教団鈴蘭台教会のチャンネル。ここは、礼拝中のワイプでの案内が充実していることが特徴である。賛美歌の歌詞、聖書などが時に応じて画面に大きく映し出されるため、聖書や賛美歌集が手元にない場合も参加しやすい。また、水曜の夕礼拝(【水曜日夜の祈り】)や講座(【聖書と祈り】)のシリーズも配信がある。特に夕礼拝は時間も短く、テゼ共同体の祈りを参考にした内容で、ゆったりとした時間を過ごしたいという人にはおすすめ。
⑧ 「ボクシーズBoXies」
手前味噌です。教団の若手〜中堅牧師が参加しているチャンネル。信仰に関わること、牧師たちの普段の生活のこと、キャンプ動画など多様な内容であるが、キリスト教主義学校に通い始めた中高生・青年を主な対象として、キリスト教・教会や牧師に親しみを持ってもらうことを狙いにしている。このチャンネルのオフ会企画として「牧キャン」(牧師キャンプ)を行ってもいる。
番外編 「キリスト教動画伝道ネットワーク」
動画による伝道の心構え・技術などのレクチャーアーカイブのチャンネル。主宰者は片岡賢蔵(東中通教会/元テレビディレクター)。Zoomでのプログラム「スマホでできる動画伝道ワークショップ」も展開している(発表者も今期受講中)。配信者になりたい人はぜひ。また、ネットリテラシーという観点での講座もあるので、配信はまだ少しハードルが高い…という人もワークショップに参加してみる価値アリ。