【分区教師会発表】牧師の複業が地域を救う!?聖公会の特任聖職の実践から学べるもの

この発表について

2022年11月、私が所属する日本基督教団四国教区南予分区の教師会で発表した原稿です。内容としては『自給している聖職者たち』のレビュー的な面もありますが、この本から得たものを私たちの教会でどのようにアレンジしてゆける可能性があるかというところをむしろ主要なものとして考え、発表しました。これまでの教会の運営方法を大きく変える提案を含みますので、発表の反応というのはすぐに大歓迎という感じではありませんでした。
ただし、こういった抜本的な改革プランというものは今後も考えていかなくてはならないと思います。一つの可能性、たたき台ということでここで発表します。

さらなるアレンジ案、アイデアありましたらぜひ教えてください。

発表原稿で脚注にしていたところは、各節の最後の注といたします。ただし、主要参考文献(『自給している聖職者たち』)の参照ページのみを示すような場合は、その場で括弧書きに書き換えています。


0.     はじめに

近年の個人的課題は、「教会の公共性」です。前任地も過疎化していく町でした。教会が新しい人を得る以前に町そのものの存続について誰もが不安を持っている世界です。都市部を含めた社会全体で見ても、どんどん貧しくなる不安感がつきまとっていますし、実際実質賃金は下がっていますので、貧しくなっています。そのような中で、教会が従来の「伝道」の感覚でもって、日曜日に人を誘うという組織運営モデル自体に限界が来ているという思いに至るようになりました。「Fxxk 日曜日のミサ、今必要なのは1年以上のビザ、もうちょっと余裕ができたら飛行機でTrip to Ibiza(※1)」というリリックは真実だと思います。これを歌ったMoment Joonはカトリック家庭に育った移民者ラッパーですので、「日曜日のミサ」という言葉を用いたり、最も必要なのが「ビザ」と歌っていますが、「礼拝なんか出てもそもそもの生活が保障されないじゃん」という、明日無事に日常を迎えられるか強い緊張感を持たされている人々の声に教会はなにか応える術を持っているでしょうか。「教会とはそういうところではない」と口で言うのは簡単でしょうか。私には、「安息日にもイエス一行は生命のために麦の穂摘んでいましたよね。自分を犠牲にして礼拝をささげろという無茶な規定よりも生命が大事でしょう」と言われて教会側が詰む未来しか見えません。具体的な手法なく「祈りましょう」と言うだけでは、むしろその祈りの言葉が切り捨てられた絶望として聞こえるように思われます。

教会が信徒でない人や地域全体へ何をもたらすことができるでしょうか。地域住民に、たとえ信徒にならなくても教会はこの地に必要な施設であると認識してもらうには、なにができるでしょうか。

その可能性のひとつとして、個人的には、過疎地においては、教会が移住者の基地のようになっていくという青写真を持っています。そして、それを実践するために、教会から給与を受け取らない/ごく少額を受け取る教役者雇用という手法は、「有益で、持続可能な宣教活動」であるのかどうかを考えています。

(※1)Moment Joon「Spotlight '1921」


1.     特任聖職とは(聖公会の実践)

最近、『自給している聖職者たち 特任聖職実践ガイド』(ジョン・リーズ著、中原康貴訳、西原廉太監訳、かんよう出版、2022年)という書籍が出版され、注目を集めています。これは、英国聖公会において無給の教役者である「特任聖職」の任職率が増加し、今後さらに増えていくことを見越して、特任聖職のあり方や特有のミニストリーについて解説している本です。
俸給を受け取らない聖職者を大きくまとめて「特任聖職」と呼んでおり、この人たちが自給する方法としては、年金生活、セミリタイア者、他に有給職を持つなどがあげられています(『自給している聖職者たち』、20ページ。以下ページのみの表記は本書)。この特任聖職の中で、有給職を持つ人を「世俗聖職」と呼んでいるようです。「特任聖職」の特別な部分は、従来と俸給の受け取り方が違うとか、有給職の兼ね合いで教会の全行事に顔を出すわけではないくらいのもので、委ねられている職務は専任教職と基本的には同じです。つまり、礼拝の司式や説教、聖礼典に加え、葬儀/結婚式といった諸式を執り行います。任命された教会とは少し離れた場所に居住していることが多いようで、その分自由に地域教会のサポートに入るような働きもできるとのことです。教会のために割く労働時間は、20~30時間/週と報告されています(※2)。

先ほどあげた特任聖職のうち、世俗聖職は、自身の労働生活を教会のミニストリーのためと考えている人もあれば、この労働こそが自らの職務に不可欠であると考える人もあります。いずれにしても職場においてその見識を用い、信仰の対話をその場に起こし、そこに教会を存在させるという働きをしています(139〜140ページ)。雇用主との同意というあたりで課題があるようですが(※3)、しかし、この雇用主との対話自体がすでにミニストリーであるとの説明もされていました(148ページ)。

職制や文化背景が大きく異なりますので、そのままコピーというわけにはいかない部分もあるでしょうが、「特任聖職の働きは一面では教区の財政負担を軽くすることにもなりますが、そのために特任聖職があるのではありません。職業を持ち、職場で働きながら、自らの働きの場を宣教の場とし、そこで出会う人たちに主・イエス・キリストの福音を伝え証しする働き」(4ページ)であるという、この本の発刊に寄せられた武藤謙一日本聖公会首座主教の言葉にある基本的な理念は、これからの教会全体にとって最も必要な視野であると考えています。これは実際に特任聖職として働いている人の声にも明らかです(この本は多くの実際に働いている特任聖職者のインタビューが掲載されており、それだけでも読む価値があるでしょう。)。

特任聖職は非常に重要なミニストリーだと思います。それはコミュニティに焦点を当てた、イエスのガリラヤでのミニストリーに最も近いものかもしれません。ほとんど教会に行かない人々の中に入り、人々を見出し、質問に答えるのです。それは、ミニストリーがリアルであり、価値があり、重要であり、イエスの道を生きることにつながるものであることを示しています。週末が意味をなさなくなった社会では、私たちは人々が仕事や勉強をする場所で、かれらがそれらをしているときに、手を差し伸べる必要があるでしょう。(175ページ)

(※2)20時間は他に有給職を持っている人。30時間はセミリタイア者等。ただし、日本の現状では有給職で十分な収入を得るために労働するとここまでの時間は教会のために作れないと予測される。166ページ参照。
(※3)とはいえこれも全く理解がないというのではなく、特定の人の信仰を特別扱いしてはならないという雇用主としての立場の問題。


2.     ブラジル聖公会


『自給している聖職者たち』に簡単にではありますが紹介されていたブラジル聖公会の事例は、衝撃でした。ブラジル聖公会はアメリカ聖公会から独立管区になった1965年以降、自立のための改革を次々に行い、その中で、主教がすべての聖職に対して他の職業を持つよう勧告したとのことです。結果として中原司祭は次のように報告しています。「牧師が専任でなくなった結果、「信徒はお客さん」という体質が解消され、トータル・ミニストリーが勧められるようになった。そして、現在のブラジル聖公会では専任聖職が増えている」。この事柄について、監訳者の西原廉太中部教区主教は、ブラジル聖公会首座主教から聞いた言葉を次のように記しています。
 

ブラジル聖公会の聖職者が全員、他に世俗の仕事を持っているのは、ただ単に人件費を節約したいからではありません。そうではなく、むしろ第一義的には、聖職者が平日にも福音を世俗の現場に携えて行き、平日の職場においても、普段、福音に触れることのない人々にキリストの香りを伝え、平日に世俗の社会の中で疲れている人々に慰めを与え、痛みや悲しみの物語に耳を傾け、そうしたこの世の物語の一つひとつを、主日には教会に持ち帰るという、実に積極的な目的があるのです。(6ページ)


3.     ポナペ合同教会

ポナペ合同教会は、私の父が1970~80年代にかけて、2回、合計3年間信徒宣教者として日本基督教団から長期ボランティアに派遣されていた教会です。父は同教会に派遣された荒川善治・和子宣教師夫妻のサポーターとして、養豚・養鶏指導を行っていました。この教会では(現在のことはわからないのですが、かつて)俸給を受け取っている牧師は総幹事1名のみと報告されていました。

もちろん、専門的神学教育を受けた人はかなり少ないなど課題点もあったようですが(宣教師としての働きはそのあたりのサポートも含まれていたようで、荒川宣教師は神学講座を開講、深田未来生牧師や長崎哲夫牧師がゲスト講師として1週間の集中講座を担当していたりもする)、礼拝に出れば、説教担当の牧師(これが2名いることも珍しくない)、祈祷担当の牧師、聖餐式司式者の牧師と役割分担をして、助け合ってその礼拝をリードする牧師たちの姿を見ることができ、素直にいいものだと思えました。
 
 

4.     日本基督教団でのアレンジ案

ただし、現時点の日本基督教団がその組織運営の基本としているであろう「1教会1牧師」となると、その唯一の牧師が複業しては、週報作成+説教準備+役員会準備その他くらいで時間いっぱいとなってくる人が多いのではないでしょうか。これではただ重労働を無理やりさせているだけになってしまうかもしれません。

そこで、この特任聖職に相当する複業牧師(年金等での生活者を含む)を用いて、「1教会1牧師以上」を目指すのはどうでしょうか。例えば4名の複業牧師で3つの教会を担当、3名の複業教職で2つの教会を担当、という具合です。こうすれば、1名の労働時間が少なくても1.3~1.5人の労働力となり、チーム制となることで効率化アップも望めるかもしれません(説教得意だけど事務苦手とかいう人…牧師あるあるでしょう?)。専任牧師を交えれば、有益な組み合わせはおそらく倍増します。専任牧師を前項のポナペ合同教会でいう総幹事のような扱いとし、伝道地域全体の監督者や全体の事務員(週報作成(※4)や教区とのやり取り、法人業務、各教会の役員会議長、複業牧師の研修係)として働いてもらい、礼典に関しては各教会にいる複業牧師が手分けして行っていくという具合です。場合によっては、法人上は合同してもいいかもしれません。役員会には複業牧師も極力陪席し、現状を直でシェアします。地域牧師はテレビ電話でのミーティングを定期的に行い、研修に相当する時間や、各教会の報告をレポートします。テキストレポートだけならLINEグループでも手軽に行えます。

牧師が少ないという話も聞きますが、一方で無任所教師はそれなりの数がいます(隠退登録をしていない人だけではありません)。「人手不足」なのは求めている人材にオールマイティーを求めざるをえない教会の機構によるものであると私は考えます。

(※4)ただし週報フォーマットや基本的な報告事項はこの区域全体で合わせる必要があるかと思います(参考イメージはカトリック教会の「聖書と典礼」。各教会で特別の報告がある場合は別ペーパーを挟む。コラム一個くらいなら複業牧師もがんばれる?)。

 

5.     過疎地域の教会の希望に、ではなく地域全体の希望に

ただしこれは暫定的な扱いで、この地域の将来を考えれば、「1教会2牧師以上」を、複業牧師を活かして得ていく幻を描く必要があると思います。それは、移民者を得られなければいずれ人がいなくなるという過疎地の状況を鑑み、移民者をもたらす教会が地域全体への具体的な奉仕の姿であると受け止めていることによります。

「教会が移民者の具体的な生活の場になっている」という絵が見えた場合、キリスト教徒でない人にとっても教会はリアルな近さで有益な施設となるでしょう。地域で労働する人さえいればまだまだできる事業があると考えている雇用主もいるはずです。

保育/幼児教育業界に少し身を置くようになって、保育士不足をリアルな言葉として聞くようになりました。保育士がいて、より手厚い保育が地域で展開されるようになれば、「もうひとり授かりたい」という思いが人々のなかに湧いてくる可能性は十分あると考えています。


6.     人の移住を決めた瞬間に立ち会って(三次での経験)

以前住んでいた広島県北地域で、地域おこし協力隊として移住してきた友人が、大学時代の友人を遊びに呼んだとき、同じ地域おこし協力隊だったメンバーの引っ越しを手伝わせました(わたしも友達から呼ばれて手伝いました)。引っ越し作業~お疲れ様会を一緒に過ごす中で、彼は具体的にこの町に住むことで知り合いになれる人の顔が見え、自分も三次に移住する気になりました。

「いきなり働かされて嫌じゃなかったの?」と後ほど聞くと、「あれで楽しかったからむしろ移住したくなったんですよ」と教えてくれました。

教会はこの一緒に住む住人を具体的に見せる基地みたいな存在になれる可能性を持っているとその時からずっと考えています。


7.     試しに南予分区でやってみるなら

三瓶幼稚園の事務員として働き、その中で保育士資格を私と一緒に取得するよう試験準備をします。事務員給は専任とはならないので年間150~200万円くらいだと思います。残りを教会や教区にサポートしてもらいます。

1~2年後、保育士資格を取得できたら、一定期間、フリー保育士として三瓶幼稚園で有給実地訓練を行い、保育士不足に困っている南予地域の(教会施設にこだわらず)保育施設に送り出し、フルタイムでの働きで給与を受けられるようにします。その人がフルタイムとなり、教会に割ける時間が減りますが、新たな複業牧師候補者を同様の方法で招聘し、カバーしていきます。

ちなみに、三瓶幼稚園事務員として働いている間は、下記の表のような勤務体制になるかと思います。 



8.     専門職のボランティアについて

『自給している聖職者たち』の中に、このような言葉があり、印象的だったので書き留めます。
 

無報酬の働き人に対して「プロフェッショナル」という言葉を使うことは稀であり、多少問題があります。しかし、弁護士がボランティアで活動し、医師が国際的な慈善活動に参加するなど、専門家は常に何らかの無報酬の働きを行ってきました。(41ページ) 

この職務がプロフェッショナルであると真に考えるならば、無報酬の人で職務をする人もいるというのがむしろプロフェッショナルの所以になるかもしれないとも考えました。

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