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【礼拝説教】私も仲間に入れてくれないか?というスタイル【無料で全文読めます】

<はじめに>

有料記事としていますが、全文読めます。

この記事は2022年2月27日@三次教会の説教です。


<聖書>

ヤコブの手紙 5章13〜16節
マルコによる福音書2章1〜12節

(※)「4年サイクル聖書日課」の使い方を私が間違えておりまして、本日から灰の水曜日までの朗読聖書箇所は他の多くの教会と少しズレが出ます。すみません。
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


<説教本文>

天井を破って来たのは、ミサイル。
これが現実となり続けている世界に僕らはいる。
「ウラジーミル、君と同じ未来を見ている」とか誰かが言ってあげちゃったお金、回り回ってあのミサイルに?そんなことを考えている。

世界は今まで何度もこんなことを繰り返してる、ウクライナ(でのこと)だけじゃないです。市民が銃を握り義勇兵へ。独裁者と一部エリートのメンツのせいで…。
見ていられないです、今日また煙を映すテレビを消して。でもその報道の映像は頭から離れないです。

(※)この一部分、分かりづらい表現にしてしまっていました。
「ウクライナだけじゃないです」というのは、国家や正規軍としてのウクライナではなく、場所として言っており、「ロシア軍による侵攻」を指しているつもりでした。市民も銃を握るようになってしまったのは確かにウクライナ側ですが、その原因はロシアの独裁者と周辺にあると私は考えています。


今日の福音書で天井を破って来たのは何なのか、そしてその天井とは何なのか。現代で、何と重ねてみることができるだろうか。

そして、この奇跡の物語は、今日、どのように再現されるのか。


私は今日、ただひたすらに、ひとつの幻を話します。


今日の福音書が語る破られた天井は、家父長制です。エイブルイズム、健常者至上主義です。これは破られないとなりません。あまりにも多くの人々がこれのせいで人でない扱いをさせられてきました。

結局「勇ましく強いオス」が支配するような世界で、女性や子どもは長く従属的な立場に置かれてきましたし、「強く」なれない男性も同じでしょう。そして強さへの羨望が、またそこで小さな支配の構造を作り出していく。その強さには、家系による神話も含みます。高貴な家に生まれたかどうかというのも含みます。強さを得られなかった人は、従属的な立場を受け入れる限り生存を許可される。そういう世界です。部族主義や自民族中心主義もだいたい同じで、種族が生き残るために、ヒトはこういう手段を取ってきて、極限状態には特にそういう手段を選んでしまうわけですが、しかしその代償は…。

男は銃を持たされ、互いにターゲットになり、女性や子ども、老人だって流れ弾から自由でない上に、サポートをさせられることはあるし、弾除けに使われるかもしれないし、時に泣き声がうるさいとか足手まといとか言われて味方を称する兵隊に殺される。また、障害や病気を持つ人々は、外国籍者は…、少数者は…。


すべて強いオスが、支配するものが生き残るためにいいように使われる。

いや、特に緊張状態じゃなくても、この部族主義を伴う家父長制は、権力を持たないとされた人々が中心に立つことを許さない世界にしてしまいます。端っこでおとなしくしている限り、自分を否定して生きる限り、生存を許可される。前も少し言ったけれど、自分を卑下してそこに存在を許可される、というある種のモデルケースになってしまっている人々。そういう厳しい条件付きの生存許可に理想的に従う少数者は、許可を出している側が、自分は寛大な者であると思い込むために利用されるだけのものになります。彼らは仲間に受け入れているというのかもしれない、しかし、末席に、おとなしくしている限り受け入れてあげている…、これって仲間なんだろうか。


天井を破ってきたのがミサイルであってはなりません。それは権力者のものです。軍隊は、家父長制、部族主義の象徴です。ミサイルが破壊する天井、家のほうにも、深刻な家父長制的な、部族主義的な問題が残っているかもしれませんけれど、しかしそれをミサイルで破壊するのに何の意味がありますか。マズイ制度を重ねるだけです。一見爆発して散り散りになっているようでいて、その爆薬だって権力者のものなのですから、部族主義の塵を撒き散らしているだけです。そして、その対象を更に強く家父長制が染み付いた軍隊仕込のシェルターにしてしまいます。

天井を破ってきたのは、病気の人。イエスの目の前、この日、世界の中心に立つのは誰なのかを見よ。きっと、端っこならいれただろうし、友人の1人に入ってもらって伝言とかで、その話を聴くことはできたかもしれない。それが絶対ダメなことだとは言わないし、そうしたから恵みは全部失われるというわけではないとも思います。しかし、そこで留まるのがいつだって絶対正しいわけではない。「わきまえる」のが正しいのではない。

端っこで、永遠に辺境の者でいるように家父長制的天井は仕向けるのですが、むしろ今日の聖書は、その天井が「辺境の者」とさせられていた人とその仲間たちの手で壊され、彼らが中心に立つという世界を語っています。この天井の破壊をミサイルと重ねてはならない。むしろ見ている未来は逆だからです。


私には、病気を癒す力はありません。しかし、この癒やしもキリスト教史のなかで、エイブルイズム(健常者至上主義)を強調してしまっていたのかもしれないとも思います。だとすると、これもちょっと前に言ったんですけれど、病を抱えた人びとが医学的にはそれが治らないまま社会復帰した…という形での再現が、今は求められているんじゃないでしょうか。確かに、イエスは最初に「罪はゆるされている」と言いました。まずイエスが取り除くのは、レッテルです。この人と仲間になるイエス。


悔い改めるのは、つくりかえられるのは「健常者主義な世界」。それを作り出していた天井は破られます。

中心に立つのは、権力者ではない。恵みの中心地は、貧しくされた人々だ。君が恵みの中心地だ!


私たちはこの手で、すなわち非暴力的手法で、世界の家父長制的天井を破らなくてはなりません。直接的な、大規模な戦闘、国家同士の全面戦争とでもいう戦闘行為がこの地上でまた行われてしまっている今、この責務はより明らかになっています。


「祈り、働け」。古くから修道院に伝わるこの標語は今も有効です。祈りを具体的な行動として行う。具体的な行動を祈りとする。神から与えられている良心に期待するけれども、自らに家父長的な考えが残っていないか省みる。

願っている事柄を神に明らかにし、それを人に表明する、という意味で「敬神愛人」とも言い換えられます。私たちは祈る、そして働く。

軍事行動に対してストップ!強いオス中心とされる社会に対してストップ!虐げられた人々を思い声を出す。これが僕らの地上に神の国をもたらす賛美だ。虐げられた人々を思い投票行動をする。これが僕らの地上に神の国をもたらす奉仕だ。ゼロを1にする。家父長制的天井の釘一本も抜けるか分かりません。その板の木くず一つを取り除くだけかもしれません。しかし私たちが恵みの中心地に立つために、虐げられ続けてきた人々と共に立つために、女性たちと、子どもたちと、老人たちと、障害者たちと、病人たちと、性的少数者たちと、移民者たちと、そして男たちと共に立つために、私たちは…いや、私は自分に対して言う、「祈り、働け」。私たちは自分たちに言う、「祈り、働け」。そして世界に言う、「祈り、働け」。


そうして私たちは全てが神の栄光に包まれる「その日」が来るのを早め、きっと聴くことができる!聴くことができる!丘という丘、山という山から鳴り響く自由の鐘!

この地上を非暴力の世界に。地上に平和を。地上に神の国を。どうか神よ、共にいてください。アーメン。


<参考資料・備考>

大体、私の説教は以前の自分のものを引き継いでいるのですが、今回は特に以下の説教を色濃く引き継いでいます。

ロシア軍のウクライナ侵攻について、日本キリスト教協議会(NCC)が抗議声明を発表しています。全文は下記リンクやNCCホームページで確認できます。

西中国教区も声明を準備しています。


<説教動画>

もしよければ音声付きでもどうぞ。

https://youtu.be/Wk_xWUcH9Dk

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