【礼拝説教】この正義の大河は逆流しない(2023年9月24日)
<はじめに>
この記事は2023年9月24日@三瓶教会礼拝の説教原稿です。自分としては、具体的な提案を含む内容でしたので、協議の基になればとの思いから、10月の分区教師会の礼拝でも同様の内容を話しました。
また、ここ数日、Xにて「什一献金」について話題になっているのを見、これについて自分のスタンスを公表しておく必要性を感じましたので、ここに書き記しておこうと思います。
<聖書・礼拝で歌った賛美歌>
アモス書8章4〜7節
テモテへの手紙一 6章11〜12節
467「われらを導く」
424「美しい大地は」
371「このこどもたちが」
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。
<説教本文>
偽りの天秤の話。私たちキリスト教会も、偽りの枡を、天秤を使い続けてきたのではないか、と思わざるを得ないことがあります。去年、こういうニュースが入りました。
記事を読むと、この牧師は、過去に10分の1献金を推奨するような話を何度もしてきたようで、自らそれを非難したということのようです。私もこれに同意します。この十分の一というレートが、長年キリスト教が信徒のやさしさに甘えて残し続けてきた「偽りの天秤」なのだといわざるを得ません。もちろん、あまりこだわらずに、というような声かけは多くの教会でなされてきたのでしょうけれど…。
しかし、おそらくですが、日本基督教団でもこの10分の1という秤が、どこかで有効性を持ち続けていると思います。つまり、こだわらずに…とは言うものの、その天秤は飾られ続けているということです。気にしないでと言うには名前が悪いです。実は無いが名はある、という感じでしょうか。いや、実を持つようなプレッシャーを感じる話だって聞いたことがありますよ。
今の日本基督教団で代表的役割にある人が、この献金の話を美談として教区総会あいさつしていたのを憶えています。「10人いれば、みんなが本当に10分の1献金すれば、教会ってできるよね」、と信徒に言われ、感動したというような筋でした。これは10人の信徒が10分の1ずつ集めて一人の牧師分の収入を確保するという筋の話だと思います。
僕らも使っている、まぁ慣れているのでこれからも使うでしょうけれど、教団が出している黄色い献金袋、裏の説明に什一献金の精神で…みたいなことが書いてあったと思います。
牧師間の会話で、俺は10分の1ちゃんとしている、ということを聞く場面もなくはないです。
長年それ以上に捧げ…としてきた人に今更即やめなさいと言うのも大変かもしれませんし、献金が地上の正義と公正のために、神の国の実現のために、訪れた人の平安が守られる教会運営のために、具体性をもって用いられていて、かつ本人の主体的な判断ということなら、多く捧げたいという思いを持つこと自体はダメではないとも思います。ここで大事なのは、具体性と公益性です。
しかし、その公益性の観点から、特に聖書が大切にしている貧しい人々への正義という公益性の観点から、10分の1という天秤は、偽りである場面があまりにも多く、正義の大河を逆流させてきたという評価が正直なところだと思います。一律の税は、逆進性が強いというのは私のような素人にも常識です。ですから、いちどこの天秤を飾るのをやめにし、これは未来の世代へは適用されないことを確認する必要性を感じてきました。
貧しい人々を助けるためのプール金を作ろう、みんなで出し合おう、という第一歩として、この神殿税に相当する、義務付けられた献金は有益です。貧しい人々を助けるためのプール金を作ろう、みんなで出し合おう、という方向性の話です。貧しい人を忘れないようにしよう、という方向性ですから、その当時の天秤の使い方は有効ではないのです。
この具体的な方向性こそ、確認しつづけるべきです。教会は方向性ではなく、秤そのものに注目し、それを偽りとしてきてしまいました。教区がしている互助献金は、この方向性というものがよく現れていますし、具体性も見える工夫があるので、みんな同意しやすいじゃないですか。良い実例があるのです。ただし、その教会自身が世界の正義のための、信徒でない人の公益性のための活動をできなくなっているというのが実情なのかと思います。
私たちは大変なときにこそ、「ただ信じよう」ではなく、信じ、祈る先の世界の夢を描かないとなりません。正義の大河はどこに流れていくのかを、物語るのです。ただ礼拝しようとかいって心の平安を得た気になってはなりません。教会が未来の正義を語れないのは不正な商人そのものです。どの営業だって今はします。この商品のメリット/デメリットそれぞれ全部話して、消費者に判断してもらう。なんとなく礼拝しようではもうダメなんです。この礼拝が具体的に、未来の正義にどう繋がっているかを語れないとなりません。
この教会の礼拝が、貧しい人々を支えるためのものにならないとなりません。そういう教会活動の原動力となっていかないとなりません。具体的には幼稚園という素晴らしい宝をもっていますから、そこをどう輝かせるか。また、その幼稚園を支えるために、幼稚園ではできないフィールドにどう関わるか。
高校がなくなってしまう今、子どもたちにどうしたら帰ってきてもらえるかは、子どもたちをどう送り出すかと同じです。そういう意味で、信徒であるなしに関わらず、どの子も祈りによって繋がり続けられる可能性をもった高校リストと、各校のパンフレットは用意しました。
それと、移住者への支援金も方法がないか、弁護士さんのアドバイスをもらえるところまでは予約しました。私たちの手にある金や銀は少ないながら、正義の大河によって水を得、アイデアの泉を湧き上がらせるのです。
他にも、みんなのつくえ。今ウチはおやつとカップスープをおいているだけですが。これも夏休みに昼食の算段がつかない子が食べてくれたりして、無意味ではなかったと続けたいです。
このみんなのつくえをもっと価値あるものにするとしたら、他教会の事例ですが、生理の貧困を是正するための生理用品の配布というアイデアがあります。あるいは、介護おむつとかにも発展できるかもしれません。
これは正義の大河に方向づけられていると思います。通常可処分所得というのは、税金と社会保険を抜いた手取りを指しますが、実質的には家賃や食費というののある程度の部分は完全に必要経費であって、自由に使えるお金という話ではないです。そこに女性であれば、生理用品が入ってきて、同じ収入でも、女性であるというだけで、その分自由に使えるお金が少ないという話になるのだと思います。貧困世帯になるとこれは深刻だと聞きました。実際、自由に使える、持ち帰れる生理用品をおいている教会があります。10分の1献金の精神とは、方向性とは、貧しい人々を忘れないという意味においてのみ有効なのだと思います。ですから、このレートは未来世代へ適用させてはならないのです。
少なくとも、正義の大河を逆流させないように、新しい世代には10分の1という秤は適用されないと確認したいのです。一律の税というのは、逆進性が強いというのは、私のような素人にも常識です。私たちが正義を語り合い、夢を共有したい人たちは、数多く教会外にもおられるのですが、その人たちとの協力が一部にとどまっているのは、教会内に貧しい人を圧迫する不正の天秤を残しているという自己矛盾によるのではないでしょうか。この秤を未来世代へその名だけでも残すのは、私たちは貧しい人を守るための計算式を作ることができない集団です、というマイナスプロモーションに思えて仕方がないのです。
私たちが新しくなれば、きっと世界を、この地域を新しくするチャンスが生まれます。もっと優しいものに。もっともっと優しさあふれる世界に。この正義の大河は逆流しない。だから、私たちから、変えていきましょう。
<アフタートーク的な>
「什一献金」(収入の10分の1を献金しましょうという勧め)は、これから明確に無くしていく必要性を思い、話しました。この件については、皆さんいろいろ意見がおありだと思います。
この提案から、「献金」と、それによって運営されている教会の未来について、話し合いをできるといいなと思っています。
Xなどで(DMでもぜひ)皆さんの思いをお聞かせくださればありがたいです。