【礼拝説教】チリ・チル(2023年11月5日)
<はじめに>
この記事は2023年11月5日@三瓶教会礼拝の説教原稿です。
なかなか音声の準備まで整いませんが、せめて原稿だけは公開しておこうと思います(公同というのを強く思っているので、隠すようではいけないというのが私のスタンスでしたのに、環境が変わった忙しさにかまけてしておりませんでした)。
過去のおはなしについても、少しずつ出し直せるようにします。
<聖書・礼拝で歌った賛美歌>
創世記3章1〜19節
385「花彩る春を」
425「こすずめもくじらも」
81「主の食卓を囲み」
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。
<説教本文>
最期は塵にかえり、風に吹かれ散る。
これは厳しい現実である一方で、しかし悠久である生命の営みに、人もまた溶け込んでいるという思いを満たすものでもあります。少年時代に、家にあったのか学校の図書室で見つけたのかも忘れましたが、なにかの本で見かけた言葉を思い出します。人の生と死について書いて次のような趣旨で書いてありました。「昔は死というのは怖いもので、できるだけ触れないようにと考えられてきましたが、今は、死をあまり怖がらず、みんなで考え、話し合っていくほうが、良い生き方ができると言われるようになってきました」。多分出会ったのは20年以上前のことで、その本自体もどんなか忘れてしまっているわけですが、この言葉は、ずっと記憶の片隅にあります。
「塵に過ぎないお前は塵にかえる」という言葉も、呪いや罰ではないかもしれない。神とともに焚き火を囲んで、薪がパチパチと音をたてながら塵となり、火の粉として吹き上がり、風に吹かれていくのを眺めながら、人生そういうものだと優しく語り合い、落ち着きをもたらすようなものかもしれません。
塵であると知るとき、チルできる(落ち着ける)。
もともとの、今日の聖書の話も、そういう筋書きのところがあるように18歳を越えてから出会った大人たちは語っていました。あるいは、そういう筋書きで読んでも良いんではないかと思える材料となる言葉を語っていました。
もちろん、言い訳で人のせいにするようなのは、点で見たら良いとは言えないというのは当然のことです。しかし、成長の足跡として見た場合、取り繕って言葉を絞り出すというのは、知恵の始まりという言い方はできるかもしれません。20歳のころ出入りしていた教会で、ある幼稚園長をされていた人が礼拝のお話を担当して、「言い訳をする、じゃんけんでオソダシなど、ずるをしてみようとする。子どもとはそういうものです。それが自分で考えてやってみているということです。それらも成長ですよね〜」と優しく言っておられたのは、印象深いです。ちなみにその方が担当していた幼稚園のある頌栄短期大学を先週訪ねたので再び鮮烈に思い出しました。
神学校の旧約聖書学の教授は、アダムは元々土を耕すのが役目で、やっていることはあまり変わらないとみることもできる。エバもまだ子を授かったことがなかったわけで、産みの苦しみが強くなるというのも比較で捉えての罰とか断定することもできないだろうと言っていました。蛇も最初の登場時から「蛇」。足があるトカゲとして登場したわけではないと。つまり、現実の告知、そういうものだよという呼びかけ。現実の厳しさは語るけれど、それは罪や罰とはちがう。それらを人に被せて、萎縮させるものではないと読むのも不正ではない、むしろ本筋ではないか、という話です。
この物語に、代々引き継がれてしまう罪・「原罪」を読み取るのは、5世紀のアウグスティヌスから、とハッキリしているようです。数々の功績のあるアウグスティヌスですが、この点については人々の肯定感を減らし、従順な人間をつくり、支配者層にとって都合の良い神学を組む基となってしまった「誤読」であるとはっきり言う研究者もあります。私もこの物語は、罪深い人間の物語であり、神に詫び続けないといけないのだと言う根拠とするよりも、「人は褒められないような言い訳をしてしまうが、それも成長につながるものであり、そこで生きていく厳しさと、その厳しさと同居する喜びを味わえる」と語る、人の成長の根源を語ろうとするものではないか、と考えています。じゃんけんのオソダシくらいの道の外しは、する前から止めようとするより、やってみてどうだったか一緒に考えるくらいのほうがいいじゃないの、というのと同じ筋道です。
人は、親から言われた通りではなく、やってみようと少し道を外し、そのとき最も学び、時に不条理をもたらす世界の厳しさと、そこでも完全には見捨てないと宣言する神の慈しみを知る。
塵であると知り、チルアウトできる。
ゆったりと過ごしていくことができる。
自分の工夫で、うまくいかないを味わう。でもそれが生きていくということである。それを分かち合って生きていくとき、塵であると知り、チルアウトできる。
教会の逝去した人々を思い起こすときも、そのような塵である・有限であるという人の本質の一つを知りながら、そこでいろいろもがこうとしている人の生きてゆく様を知る。それは悠久の人の営みに触れるという意味でゆったりとした時間であって、命を慈しむ優しさで包まれる。塵であると知り、チルアウトできる。
「塵に過ぎないお前は塵にかえる」という言葉が、呪いや罰ではないと読んでいい。神とともに焚き火を囲んで、薪がパチパチと音をたてながら塵となり、火の粉として吹き上がり、風に吹かれていくのを眺めながら、人生そういうものだと優しく語り合い、落ち着きをもたらすようなものと読んでいい。塵であると知りながら、同時にチルアウトできる。ゆったりと過ごしていくことができる。自分をそんな否定しないでいいと知る。この神の優しさにチル。塵であるから味わえる慈しみと共に生きる。
<アフタートーク的な>
この日は永眠者記念礼拝でした。
連休と重なったため、帰省しておられた方、立ち寄ってくださった方があり、にぎやかで心温まるひとときをすごすことができました。ありがとうございました。
実際、あの日はチルな感じだったと思いだしています。