どういうつもりだったか分からないけど、2,3気になる仕草をする人がいて、まず初手で、この人は本当の本好きではないんではと驚いた。もしくはその本の持ち主のことがちょっぴり嫌いなんだろうなとも。帰りに道にそれを直接周りに言葉にはしないけど伝えたいんだなと察する。その人は、あの人の何が気に食わなかったんだろう。お金を持っていそうだったかからかな。話題の中心を奪ったからかな。飢えてピリピリしている人は何をしでかすか分からない。
さいきん小説的なものを書いていないので、近くはネタにしたいなと思う。
シナリオセンターがお盆休み。次の課題が『窓』なので最近の漫画にあてらて青春ものを書きたいと下書きなしでもそもそ。通学バスの窓から片思いの彼を見つめる、と。そこに素直になれない気持ちに誤解が生まれて……と。ただ仕上がってみても、はてなの出来上がり。夫に読んでもらっても、第三者的な弟キャラが余計かなあとか、ピンとこず。掴みまでが長いと。まだ恋愛のいろはに早かったかな、と反省。
「本当に必要な『窓』は、嵐が丘のヒースクリフの窓なんだよ、」と夫に説明する。説明しながらストーリーあれ、どうなってたんだっけ、と同時に本当はそれなんだよね、なんでそれが書けないんだろうと今。
NTL『ジェーン・エア』でも窓枠を使った、小道具があった。孤児院から家庭教師となっていざ出立する主人公が、窓を大きく開け放すような、そこではじめて大きな世界を瞳に映し出したかのような、印象的な一幕。窓をバルコニーまで出てしまえば『ロミオとジュリエット』が、『RENT』のようなミュージカル調の曲が浮かんで、恋物語が描かれる。
海外の映画ではダイナーやファミレスの窓が印象的。室内であるシーンだけど犯人がやってきたり、敵の車が乗りつけるのが見えて、逃げたり立ち向かったりたり。
劇的なシーンがあってこそ、と脳みその一番きれいなところでは理解する。
なのに、窓。窓。まど。おじいさんの顔に見えるよね、とか。書こうとするとつたないセリフや展開。
映画を撮影しているときの窓は、反射や映り込みにばかり気を取られている。開ければ騒音が気になる。カーテンの開け閉めをして、役者さんの顔にあたる日の加減を気にしたりする。カットのつなぎの部分とか。
時代劇か?と別の道も見えるがそれは、障子や木の格子である。ガラスが使われ始めるのは江戸時代以降だ。
サンダンスか、アカデミー賞か、WOWOWで配信されていた短編国際映画祭では、窓越しに生活をのぞき見る傑作があった。
確かこんな話だった。若いカップルの性生活、それを遠くの窓から覗き見る、妻と夫。夫婦には小さな子供が2,3人いて、子育てと仕事と生活に、夫婦は協力し合っているがかみ合わないときもある。自由で、性に貪欲な若いカップルが羨ましい――。それを見て、駆り立てられるという関係性でもない。子どもも寝ているし、疲れているし。ただ、夜のソファに座って、部屋の電気を消して、寄り添って、その行為を見てる。印象的なシーンだった。短編なので、その話の終わりはすぐにやってくる。
妻が窓越しに、カップルの男性が救急搬送される様子を目撃する。驚く妻。慌てて、その部屋の建物に向かう。男性は救急車に搬送され、動揺する彼女を目の前に、どうしてここに自分は来てしまったのか、とためらう。
相手は、知らないけど、知らない人じゃない。知らない人のまま、大丈夫?と声をかける。
すると彼女は、あなた、窓越しに知っていると。子ども達と賑やかな生活を送っていると。彼は余命いくばくもなく、あなたたちのような元気で可愛い子供が欲しいと、窓越しに願っていたと語る。
妻は、彼女と抱き合う。
高層階の人はカーテンをつけないか、あえて閉めない。そういうの。そういうのが舞台装置としての窓。
ヒッチコック『裏窓』なんてまさに。もう少しひらめきが来るのを待って居よう……。