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日本最古のブランド氷?「函館氷」


毎年3月13日は青函トンネル開業記念日&新選組の日

一昨日、3月13日は青函トンネル開業記念日であり新選組の日でもありました。

文久3年(1863)の3月13日は、京都・壬生に詰めていた新選組の前身「壬生浪士組」が会津藩の協力を得て、新選組として発足しました。
このことから、東京都日野市観光協会により、毎年3月13日は「新選組の日」とされました。

その後、約4年間にわたり、新選組は京都で尊皇攘夷派、倒幕派の戦いを行い、新政府軍と旧幕府軍が争ったいわゆる戊辰戦争に参戦しました。
しかし、旧幕府軍が設立した北海道の前身となる幻の国、蝦夷共和国での「五稜郭の戦い」が最後の戦闘となり、旧幕府軍側の敗北という形でこの戦争は終結しました。

また、昭和63年(1988)の3月13日には、青函トンネルを通るJR津軽海峡線が開業しました。
それに伴い青函トンネル開通とともに、青函連絡船が80年の歴史の幕を閉じました。

青函連絡船は、かつて北海道と本州を繋ぐ数少ない交通・運搬手段として重要なものでした。
しかし、昭和29年(1954)9月の台風15号による被災により、連絡船「洞爺丸」の沈没事故が起こりました。

台風15号による被災による被害状況と、救助の様子を収めた資料

洞爺丸事故は死者1155名を出してしまった大惨事であり、他にも台風15号により連絡船4隻の沈没・転覆により多数の犠牲者が出る大惨事となってしまい、あのタイタニック号の海難事故に並ぶほどの悲劇でした。

これを機に、第二次世界大戦前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が現実的に考えられるようになり、船舶に変わる交通手段として計画され、昭和36年(1961)から、27年にも及んだ長期間の工期と、莫大な予算を投じて青函トンネルが建設されることになりました。

一方で本日、3月15日は昭和62年(1987)、函館の西北部で瀬棚線が廃止された日でもあります。
瀬棚線は近隣の瀬棚港からの物資輸送の要でしたが、大型トラックの普及とともに役目を終えました。

旧瀬棚線・国縫(くんぬい)駅
廃駅ってなんかエモい…。
 Wikipediaより:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JR_Hakodate-Main-Line_Kunnui_Station_building.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JR_Hakodate-Main-Line_Kunnui_Station_Waiting_room.jpg  作者:Mister0124 様 ライセンス:CC 表示-継承4.0

函館では、平成28年(2016)には東北新幹線が延長して青函トンネルが通るなど、本州とのつながりが強まっていく反面、道内でのアクセスは現在に至るまで年々厳しくなってきています。

今回は、この二つの大きな時代の変化に関係した、日本初ともいえるブランド氷「函館氷」について解説します。

日本ではかつて「天然氷」が主役だった

さて、日本においては古来より氷の利用が盛んでしたか(こちらの記事で詳しく解説しています)、あくまで身分の高い人々が夏の愉しみとして、冬にできた自然氷を保存しておいて利用する程度でした。

そんな高級品だった氷がようやく庶民のものになり始めたのは江戸時代で、「氷水」の名で氷入り砂糖水を販売する屋台なども出現しはじめました。

製氷業界の世界的パイオニア、フレデリック・テューダー

そして日本が開国してからのごく短い間、日本を席巻したのが「ボストン氷」でした。アメリカでフレデリック・テューダー氏が世界で初めて天然氷の採氷、保存、販売事業を1805年に起こしました。アメリカ東海岸のウェナム湖で採取され保存された天然氷は、ボストン港から世界中に輸出され、日本では横浜に陸揚げされました。

ただでさえ輸入品であるため高価で、しかも運送中に融解してしまい、歩留まりは悪く、そのため大変高級品でした。

初の国内氷ブランド、「函館氷」

あまりに高価かつ希少だったボストン氷に代わる国産天然氷のニーズは確実に生まれつつありました。
そこで、函館の寒冷な気候を生かし、海氷や川氷を切り出して製氷する産業が盛んになりました。
特に、函館山山麓には多くの氷室が作られ、製氷業者が集まっていました。また、函館港からの海外輸出も盛んで、氷が保存された船で鮭などの冷凍品が輸出されていました。

日本における製氷業界のパイオニア、中川嘉兵衛

中でも日本の製氷業のパイオニアとなったのは、後にニチレイとなる横浜氷会社を開業した、実業家の「中川嘉兵衛」です。
中川嘉兵衛氏は横浜開港とともに、天然氷や洋菓子の販売を始め、 また東京で最初の牛鍋屋を開店し、特に「もつ煮」は安くてスタミナのつく料理として港湾労働者に親しまれ、今のような定番の料理になっていきました。

そして中川嘉兵衛氏が始めた、五稜郭での製氷「函館氷」は黎明期の製氷業の中では特に有名で、一つの「氷ブランド」となっていました。

五稜郭駅に停車中の貨物列車と五稜郭、かつては船で運ばれていた北海道と本州を繋ぐ物資も、今では青函トンネルを通って列車で運ばれる。

五稜郭は、幕末の戊辰戦争で蝦夷共和国を築いた旧幕府軍が拠点としていた要塞ですが、その後は周辺の亀田川からの水の供給や、堀の構造から製氷に適している環境と判断され、函館での製氷拠点となりました。

これは冬季に五稜郭の堀に自然にできた氷を切り出し、氷室に保存して出荷するものでした。

露天で自然に堀にできた氷を、飲食用に使って大丈夫なのか?と疑問もありそうですが、ある程度は製氷のために環境を整備していたこと、また氷は凍るときに不純物を外に追い出す(一般的にこれはゆっくり凍るほど純粋になります)という、凍結濃縮という作用があるため、特に函館はこれに適した環境にあったため、氷の衛生性は保たれていました。

品質、価格の両面でボストン氷に優っていた函館氷は瞬く間にシェアを占めました。
一方で函館氷の成功を見て、日本の各地で天然氷の販売が盛んになりました。

しかし、当時は氷を包んで保存するのに使われていた「おがくず」が品薄になって相場が高騰したり、不衛生な水で作られた氷が健康被害を出したり社会問題になりました。

ですが、函館氷はその美しさから、贈答品や高級氷としても重宝され、東京や大阪など遠方にも出荷されました。
しかし、近代に入ると冷凍技術の発展や、機械による製氷冷蔵の進歩によって、函館氷のような天然氷の需要は次第に減少し、現在は機械製氷の氷が主流となっています。

今では、函館に製氷業のイメージはありませんが、倉庫などの建築物や、市に伝わる当時の資料にはその面影をみることができます。

↑参考:函館市中央図書館デジタル資料館↑

小野田商店も現代の「氷ブランド」に挑んでいます!

小野田商店は、2024年に創業100周年を迎えるにあたり、新たなチャレンシとして「小野田の超純氷®」シリーズから「毬氷」と「四角い氷」をかき氷専門店「FRAPPE HOUSE」にて先行販売すると発表しました。

「小野田の超純氷®」は、不純物が多い水を純水と交換し、60時間以上かけて完全結晶させることで、大きな単結晶を持ち、透明で硬い融けにくい氷であることを特徴とした「氷ブランド」です!

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是非、あなたの晩酌やホームパーティーに「小野田の超純氷®」を添えて頂き、プラスアルファの笑顔をご提供させて下さい!


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