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エッセイ「きのうの鳥」
第22回とくしま文学賞・随筆部門 優秀賞受賞作
きのうの鳥
海風がひるがえってむき出しの白い腹をなぜても、ヒレはぴくりとも動かない。僕はそれを橋の欄干から見おろしている。河口の砂浜に掘られた穴で裏返っているのは、イルカだ。海風は天使みたいに死んだイルカの上を通りすぎていった。
波の音と、それに似た車の音との狭間を歩いていて、小舟が一葉、消波ブロックの先に浮かんでいるのに気づいた。それで、堤防の急な階段を降りていった。ここを降りるとき、僕はいつも靴の踵を擦ってしまう。
浜には無数の足跡があった。おとなの靴跡、はだしの子。飼い主の右に左、ときおり波打ち際に行っては戻る丸い跡。松葉状の鳥の足跡。見ていると誰もいない砂浜に音が聞こえてくる。ことばと笑い、荒い息遣いにさえずり。足跡は古いものほど砂に溶け、記憶みたいにぼやけている。生れて間もない足跡は輪郭が生命力に満ちている。
無人の小舟から二三メートル離れたところに、赤血球みたいな形の浮標がぷかぷか漂っている。そこに水中から黒い球体が現れ、すぐに消えた。次に突き立ったのはふたつの足ヒレ。球体、足ヒレ、球体、足ヒレ。その反復を飽きもせず眺める僕。
遠くに扇型の石の階段があって、空中に何か舞っている。夥しい数の白い小さいもの。そこだけ雪が降っているようだ。あるいは綿毛か、波の花か。十二月初めの徳島で見られそうなものは僕には思いつかなかった。堤防を仰ぐと、旅行者と思しき家族が語らいながら海を見晴らしている。すぐ目の下で水平線より心安らぐことが起こっているというのに。それとも、冬の光を反射して瞬くこの佳景は、僕にしか見えないのだろうか。
近づくと白いものの正体がわかった。扇の階段に横たわっているのは、うつぶせで顎を上げ、息差しを失った鳥だ。首のあたりを啄まれ、血色に染まった肉が見えている。その躰から抜けた羽が気流に乗って、ひらひらと舞いあがってゆく。それが美しいものの正体だった。鳥は死ぬと羽だけが空を舞うのだと思った。これから雪が降るたびに、どこかで鳥が死んだと思いそうだ。
骨が一本ひしゃげた黒い傘をさし、冷たい小雨降る道を、きょうも海へと歩いた。イルカの穴は埋められ、周囲にタイヤの跡だけが残っている。きのうの鳥は、もうトンビに食われたか、ヒトが片付けただろう。死んだ野鳥を見つけたら役場に連絡するよう、町の広報誌に書いてあったから。
浜へ降りると、波打ち際の浜崖がぼろと崩れた。扇の階段には、雨なのにまだふたつみっつ白い羽が浮かんでいる。まるで鳥の魂がひとかけらずつ昇天していくみたいに。近寄ると、階段に屍体はなかった。やはり町が、そう思って足元の砂に目を落とし、あとじさった。漂着した枯れ枝だと思ったものは、骨と羽だけになったきのうの鳥だ。始祖鳥の化石みたいに片翼を海に伸ばし、湿った砂にはりついている。ぴいひょろ。トンビの鳴き声が死骸の上を横切り、僕の鼓膜に絡みついた。閉じた鳥の目は安らかでない。潮はいまにも片翼に届こうとしている。きのうときょうの懸隔に僕は動揺し、せきあげる何かから逃げるように階段を駈けあがった。傘が裏返るのもかまわなかった。
暁光のまばゆい窓に鳥の影が一瞬映った。昨夜はなかなか寝付けなかった。遠いところから深く響く波音に、きょうも誘われた。
黒いウェットスーツを着たサーファーたちが、笑う白波の上をそばかすみたいに散って、躍ったり転げたりしている。満潮の海は後浜にまで波が押し寄せ、生き物たちの足跡も鳥の亡骸も、あとかたなく消えていた。
昇天しそこねた魂のかけらがひとつ、扇の階段にかかって揺れている。始祖鳥という名は神話的だなと思った。鳥もイルカも、何もかもが波のように少しずつ形を変え、はじまり続け、おわり続けるのだ。まったくどうってことはない。階段に腰かけ、トンビの群れが鷹揚に輪を描く青い空高くに向け、僕はあくびをした。
オレンジ色の毛細血管がまぶたの裏でぴくと震えた。波音に目を開けると潮は引いていた。うたた寝したらしい。きのうの鳥のいた場所に、濡れた枯れ枝があった。渇きはじめた砂には、まだ誰の足跡もない。僕は立ちあがって躰の砂を払った。
歩きにくい砂に新しい足跡をつけながら、河口まで歩いた。イルカの砂の上に立つと、一瞬躰が沈んで、足跡が深くなった。僕はその深さの分だけ、地中で起こるおわりとはじまりを感じとろうとした。
振り仰ぐと、誰もいない橋の欄干から、黒い傘をさしたきのうの僕が見おろしているのが見えた。見ながら、ひるがえる海風を受け、僕はしばらく立っていた。 (了)
※徳島県立文学書道館の許可を得て公開しています。
作品集「文芸とくしま」にも選評とともに掲載されています。
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