久しぶりの投稿。人生を振り返る。
いろいろなことが落ち着いたので、もう一度、書いてみよう。
最後に書いたのが2021年3月25日。約10ヵ月ぶり。
自分の人生とキャリアを整理するために、noteの書き方を思い出しながら、生まれてから今までを振り返ってみよう。これで自分の強み、弱みなどなど、自己分析の役に立てられれば。
将来、子供が読んでくれてもいいのかなぁ。
→→長くなりすぎるので、書き方を変える。
小学校卒業まで
(2022/1/31、2/5、2/6)
1975年1月24日、3人男兄弟の末っ子として生まれた。
決して裕福ではなかったけど、でも、愛のある家庭で育ててもらいました。
未だに記憶に残っているのは、何歳だったんだろう、「テレビデオ」が家に来た時、衝撃だったなぁ。
長男とは年が離れていることもあり、良好な関係。二男とは年子なので、常に喧嘩。いつも負けていた。
野球
父、兄2人とも野球をやっており、物心がつく前から野球を始めていました。3歳くらいだと思います。左利きだったので、ピッチャー。2年生の時に6年生の兄の試合でピッチャーデビューをしました。この辺も記憶が曖昧だけど、それなりに投げれた記憶があります。そんなこんなで6年になり、キャプテン、ピッチャー、4番とよくある野球少年として少年として成長していきました。大きな思い出は市の選抜チームが組まれ、台湾に遠征に行ったこと。9チームくらいあったのか、確か、各チーム2名ずつで計18名だった。そこでもピッチャー。投げた試合は1対1の引き分け(これも記憶が曖昧)。順調に野球人生をスタートした。
思い出
・保育園か、幼稚園の時、川で溺れて、母に助けられた。記憶が正しいのかわからないけど、溺れた自分を必死で助けに来てくれて、母って子供のためなら、命がけなんだなぁ、ということが鮮明に記憶として残っている。
・学校では野球の影響もあり、徒競争は学校内でいつも2位。どうしても勝てない友達がいた。あとはリレー選抜、ソフトボール投げでいい成績を残した(気がする)。
・野球以外はファミコンを常にやっていた。カセットのケースを持って、友達の家に遊びに行き、カセットの貸し借りをしたり。ディスクシステム?も買ってもらったなぁ。あと、何かテストでいい点を取ったのか、ジョイボール?を買ってもらえた。
・両親があまり、旅行をすることが好きではなく、野球ばかりしていたこともあり、旅の記憶はない。唯一、新幹線に乗って、当時の後楽園球場に巨人戦を観に行った。サンチェ、クロマティとか出てたかなぁ。とても興奮した。
・おはようちびっこマラソン(日本テレビ)に出た。10位。ぴったり賞で何かもらった。
・山本功児選手(元巨人)の指導を受けた。
・そうそう、児童会長でした。
・5、6歳から父親に麻雀を教えてもらって、父も含め、近所のおじさんたちと一緒にやっていた。勝っていたのか、勝たせてもらっていたのか、あまり負けた記憶がない。
熱中したもの
野球、ファミコン、、、そんなもんか。
特徴
まじめだった。宿題は後にはためず、先にやってしまうタイプ。努力はするけど、最後まで追い込めない。子供ながら、あまり裕福ではない家庭に迷惑をかけないように贅沢はしないようにしていたけど、その頃から、周りが少しずつ、裕福になりつつあり、劣等感を感じていた、記憶がある。
麻雀のおかげで計算力がついた。割り勘とか、単純計算はとても早く、良く驚かれた。
中学校卒業まで
(2022/2/6)
少し変わった中学生活を送った。学区内に野球部がなく、親戚の家に住所を移して、転校をした。親から聞くと自分の判断で転校したい、と言ったようだが、そのような記憶が全くない。流れで転校をしたような気がする。
一旦は親戚の家に本当に住ませてもらい、1年くらいはそこから通った。野球をやるために親戚に家に住ませてもらう、ということが学校に伝わるとあまりよろしくないので、事情は伏せられていた。母方の家だったこともあり、表札と自分の苗字が違ったり、近所の方からすると、なぜ、突然、引っ越してくる中学生がいるのか、等々、不思議な点が多かったと思う。それが中学生の自分にはとてもストレスだった。2年生からはアパートを借りて、母が実家とそのアパートを行き来する生活となった(普通の生活ではない。。。母にはとても感謝している)。
野球
当然、野球部に入った。大きな学校で一学年10クラス以上あり、部員は50人くらいいたかなぁ。昔ながらの方式で1年生は何もさせてもらえず、ただただ、球拾いをしていじめに耐えていた。
3年生が抜け、新チームになってから、監督が変わり、方針が変わった。最上級生しか試合に出ていなかったのに、これも記憶が曖昧だけど、1年生対2年生の試合をやって、1年生が勝ってしまったことから、1年生にもチャンスが与えられるようになった。で、そうなると、さらにいじめが激しくなり・・・。そんなことを繰り返し、やはり、最上級生だけが試合に出ることになった。
デビューができたのは最上級生になった2年生の秋以降。ピッチャー、3番、2回県大会出場。1回目は3回戦で優勝をしたチームに1-0のサヨナラ負け。これがドラマのような試合で、7回裏まで0-0。ツーアウト満塁ツースリー(今だとスリーツー)からサヨナラヒットを打たれて負けた。
最後の県大会は地震とかあり、満足に練習ができず、1回戦負け。
でも、チームメートにも恵まれ、満足のいく野球生活が送れた。
思い出
・野球以外、いい思い出がない。小学校までは自分中心に回っていたものが、中学校に行ってからは、変な環境で暮らしをしている人。電話をかけても、違う名前だし、親戚と住んでるし。この辺りから、自分がうまく表現できなくなった。2年生後半からは野球部のみんなは事情を理解し始めて、生活に慣れてきたのもあり、楽になってきたけど、なかなか、一度閉じこもってしまった殻は破れなかった。
・アルバムを見ても、修学旅行とかの集合写真しかない。体育祭とか文化祭の記憶もないなぁ・・・
・不思議な一人暮らし。アパート暮らしになってからは、母は朝一で実家に帰り、一人で学校へ行く。学校から帰ってきても誰もいないので、母が作り置きしておいてくれた夕飯、出前、スーパーの弁当を食べていた。で、夜遅く、母が戻ってくる。実家には父、兄2人いたのに母はすごい生活をしてくれていた。やはり、感謝しかない。
熱中したもの
・スーパーファミコン。一人の時間も多かったから、ドラクエ、ファイナルファンタジー、何とかの殺人事件、とかをやっていた記憶がある。
・ジャンプ、マガジン、そんな漫画も読んでいた。テレビはその当時、なんだろう。ビデオ、ステレオもなかったのでプロ野球を観てなのかな。漫画はろくでなしブルースだ、記憶にあるのは。
特徴
上にも書いたけど、この頃から引っ込み思案になって、自分がうまく表現できなくなってきた。仲のいい友達とは話せるけど、それ以外の人とは多くは話せなかった。
勉強は中のちょっと上くらい。麻雀のおかげは数学だけはとてもできていた。
高校受験
スポーツ推薦で行くことに。最初は地元の小学校の時の野球チームの監督のつてで特待生として決まった。が、あまり、学力が高いところではなく、お断りを入れて、何校かお声がけをしてもらえたので、もう少し学力があり、野球の強い別の高校を選んだ。なので、受験勉強はしていない。
高校卒業まで
日本の大学卒業まで
留学するまで
語学学校卒業まで
アメリカの大学卒業まで
就活
1社目①
1社目②
1社目③
転職活動
2社目①
あまり、追い込まず、少しずつ、まとめていこう。