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蝶ヶ岳


気が付けば秋。

今年の秋は、例年の秋よりも暖かく感じるのは気のせいだろうか。

地球温暖化の影響なのか、それとも、、、


9月の話だが、念願の上高地に行ってきた。テントとシュラフと四日間分の食料を48Lのザックに詰めて。

およそ私の体重の三分の一の重さのザックは、今回の冒険を更に過酷なものにすることとなった。


交通費を節約するために家からヒッチハイクで上高地まで行こうかとも考えたが、このご時世果たして乗せてくれる人はいるのだろうかと、電車とバスで向かうことにした。

上高地はいわゆる国立公園のようなところで、徒歩でしかその中を移動することができない。普段見ることのできない野生動物たちや植物が姿を見せる。


上高地バスターミナルから歩いて二時間のところにある徳澤園でキャンプをした。この時期は動物たちの食料が少なくなるのか、冬眠に向けてか野生動物たちが美味しい食料を目的にキャンプサイトに出没する時期だ。

私たちも、熊に出会わないように細心の注意を払い続けた。


テントで寝るのは慣れているが、こんなに寒いのは初めてで寝つけるるか心配だったが、そんな心配は無用で日が昇るまでしっかりと眠ることができた。


朝の5時に目が覚め、テントを出て顔を上げるとそこには朝日に照らされた穂高連山がどっしりと構えていた。朝日が昇る数十分しか見ることのできない光景に、私は圧倒された。


7時32分に徳澤園を出て蝶ヶ岳に向かった。はずだった。

しょっぱなから道を間違えて、反対の槍ヶ岳に向かって歩いて行ってしまったのだ。

これだけ重いザックを背負って二キロはかなり痛いミスだ。


名目上初心者向けのコースは、登って登って登りまくる。登山なんだから登るのは当たり前だろ、と思われるかもしれないが、あの登りそして何時間も景色の変わらない木々の中を歩くのは、肉体的にも精神的にも追い込まれる。


それにしても、山に登る人は元気だ。関西弁のおばちゃんなんか、電話しながら登ってた。老夫婦も軽く私たちを追い越していった。

果たして、私もあのおばちゃんやおじいちゃんぐらいの年になった時にああやって山に登っていられているのであろうか。

登っていたい。


山頂を目指す途中、ヘリのプロペラの音が穂高連山のほうから何度か聞こえてきた。救助に向かうヘリか、物資を山小屋に届けるためか、後者であることを祈るが、この北アルプスでは毎年多くの遭難者が出ている。熊による被害もあるが、ほとんどが登山中による落下である。アルピニストに愛される北アルプスではあるが、険しい山がゆえに命を落とす人も少なくはない。


おおよそ六時間歩くと、沢が見えてきた。小さな池のようなものだ。覗いてみると、おたまじゃくしのような生き物がそこら中にいる。しかし、季節は九月半ばだ。おたまじゃくしと言えば、五月ごろに田植えのために田んぼにおじいちゃんが水を張るとたくさんのおたまじゃくしが泳ぎ始める。どう考えても、九月におたまじゃくしなんて季節がおかしい。

おたまじゃくしに気を取られているのもつかの間、聞きなれない鳴き声がした。ガァガァという枯れた声のホシガラスだ。黒褐色の体に星のような白斑点の体が特徴で、普段は気にも留めない町のカラスとは違い、登山者の注目を集めていた。


そのホシガラスを見てから20分ほど歩き、やっと視界が開けた。それまでの疲労なんて嘘だったかのように、頂上はすぐそこだと一層足が進んだ。

徳澤園を出て7時間。蝶ヶ岳2677Ⅿに到達した。

長かった。

目の前に立ちはだかる、穂高連山は息をすることさえも忘れさせた。



蝶ヶ岳ヒュッテのチャンプ上にテントを張り一晩を過ごした。比較的穏やかな夜ではあったが、かなり冷え込んだ。

翌朝は、朝日を見るために四時過ぎに起きた。

山頂で朝日が昇るのを待つのは、これで二度目だ。少しずつ空が桃色に染まりはじめ、なかなか朝日は顔を見せてくれない。風を遮るものなんて何もない山頂で、じっとして朝日を待つのには忍耐が必要だ。

朝日が顔を覗かせる瞬間というものは、経験したことある人にしかわからない気がする。冷え切った身体が少しずつ温まってゆくのだ。


昨年、富士山の八.五合目で朝日を見た時も思ったが、今私たちがいる地球から果てしなく遠いところにある、たった一つの物体がこれだけ多くの人の身体を温めているなんて考えると不思議でたまらなかった。


ここにいる人たちは、何を求めてこの険しい山に向かうのだろう。


きっと情報があふれているような世の中で生きているぼくたちは、そんな世界が存在していることも忘れてしまっているのでしょうね、だからこんな場所に突然放り出されると、一体どうしていいのかうろたえてしまうのかもしれません。けれどもしばらくそこでじっとしていると、情報が極めて少ない世界が持つ豊かさを少しずつ取り戻してきます。それはひとつの力というか、ぼくたちが忘れてしまった想像力のようなものです。

私の尊敬する星野道夫が言っていたように、まさにそれを求めて険しい山に向かうのかもしれない。


これだけ情報に溢れ科学が絶対で、スマホで文字を打てば誰でも答えを知ることができ、「正しい」ものだけが人々を納得させるこの世の中で、自分の直感だとか想像力のようなものに頼る機会は圧倒的に少なくなり、時には孤独さえも感じるかもしれない。

でも、その情報が少ない中で想像するという事は、私たちが本来持っていた乏しさゆえの豊かさのように感じる。



次の旅ではどんな豊かさを感じることができるのだろうかと考えていると、遠足の前日の小学生のように今晩も眠れなくなりそうだ。




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