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【デニー友利】アメリカ人の血が流れる沖縄が生んだサイドハンドの速球派は東尾監督と出会い才能が開花 ケンカ上等で投げ込んでくる剛速球を武器に何歳になっても人生に遅すぎる事はないと37歳でメジャーに挑戦

割引あり

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、デニー友利さん(ともり)を取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=WmyUPRTbYXM&t=21s

1967年、沖縄県でアメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれ、
アメリカ名はローレンス・フランクリン・デニー、
日本名は友利 結(ともり ゆい)と名付けられた少年は
小学生の時に野球を始めます。

興南高等学校に進学すると、1985年の九州大会では
リリーフで登板しましたが沖縄水産に惜敗。翌1986年、夏の甲子園県予選の
決勝でもまた沖縄水産に敗退し涙をのみました。

卒業後はプロから指名されなければ潮崎哲也らとチームメイトになる
松下電器野球部に
入部する予定でしたが、1986年度プロ野球ドラフト会議において
横浜大洋ホエールズから1位指名を受け入団しました。

プロ入り当初から身体能力の高さやその球威は高く評価され、
球団は1年目からアメリカ教育リーグに参加させる方針を打ち立てます。

カブスのキャンプに参加していたデニーは隣のロッカールームで
本ばかり読んでいる寡黙な投手と出会います。
後に通算355勝を挙げ、精密機械とも称された若き日の
グレッグ・マダックスでした。

さらに翌年、今度はレンジャーズ傘下のパイオニアリーグに
参加した際、チームメートになったのは数年後、
164キロの豪速球で314セーブを挙げたMLBを代表するクローザー
若き日のロブ・ネンだったそうです。

友利自身も快速球は申し分なかったのですが
制球力が、ややアバウトだった事から投球フォームを
サイドスローへ変更すると、たちまちその才能を開花させました。

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