【郭源治】台湾アミ族出身の熱きストッパーは強烈なハングリー精神でのし上がると日本で師弟関係となった同じく熱き闘将星野監督から俺の命綱だと絶大な信頼を得て共に戦い悲願の優勝旗を名古屋に持ち帰った男気右腕
おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。
今回は郭源治を取り上げていきます。
https://www.youtube.com/watch?v=XloYYZQgEqE&t=81s
1956年、台湾で農業を営むアミ族の両親のもと
7人兄弟の3男として生まれ、父が戦時中に
出会った日本の特攻隊員の名にちなんで
源治と名づけられると
竹で編まれた6坪1部屋の簡素な家に家族9人で
暮らしていました。
靴も買えない貧しい生活の中、
畑仕事を手伝いながら草を巻いて
作ったボールで野球を始めると
抜群の身体能力で一気に頭角を現し
小学六年生の時には台湾ナショナルチームに
選抜されます。
クリーンナップを打ち、エースとして投げるだけでなく
センターの守備もこなす活躍で
極東リーグやリトルリーグ世界大会に出場、
カナダやアメリカを撃破して世界一にも輝きました。
その功績から蒋介石の妻、
宋美齢(そうびれい)の計らいで
高校までの学費が免除されたほか
ご褒美として招待された後楽園球場の二階席から
王貞治氏のホームランを目の当たりにした事で
いつか自分もここでプレーしたいと夢を描いたのです。
大学進学の際に再び金銭的な問題に直面しましたが
報道を通じて事情を知った宋美齢が再度手を
差し伸べ、自身が理事長を務める
輔仁大学(ほじんだいがく)に進学させてもらうと
卒業後は兵役につきました。
台湾陸軍パラシュート部隊に在籍しながら
野球を続けていた1981年の1月、
日本の社会人チームと対戦する機会が訪れます。
その試合で完封勝利をあげた郭の快投を目にした
中日スカウトは、先に助っ人としてテスト入団
していたチャーリー・スパイクスが故障していた事や
投手の補強を急務としていた事情も相まって
台湾の逸材に年俸450万円、契約金1250万円の
オファーを出しました。
「当時はまだ台湾にプロ組織がなかったし
このままでは自分の人生が見えていた。
貧しい環境から早く抜け出してお金を
稼ぎたかったから日本で挑戦する事を決めたんだ。
契約金に関しては3000万円以上提示してきた球団も
あったけど、中日が一番熱心に誘ってくれたからね」と
ロッテなど他チームからもオファーが
ありましたが
中日が以前からグラブやボールを提供し活動を
サポートしてくれていた恩を感じて
ドラゴンズに入団を決めます。
契約金の半分を両親に、残り半分で
台北市内にマンションを購入して家族に
プレゼント事であっという間にお金は底をついたため
兵役が終了した7月、名古屋空港に到着した時には
風呂敷に包んだ荷物1つと、わずか数千円の所持金
だけだったそうです。
身長178センチ、体重75キロの若者は
ブルース・リーに似た台湾の星と紹介され
近藤貞雄監督も「スピードは小松と互角。
日本の野球に慣れれば勝てる投手だ」と
8月30日、横浜戦で先発初登板を果たすと
151キロの速球を連発し、すぐに勝利を手に入れます。
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