【ラルフ・ブライアント】アメリカで芽が出ず日本の二軍でも埋もれていた大砲は偶然の積み重ねによるワンチャンスを逃す事なく完璧にモノにすると後世まで近鉄史上に名を残す最強の助っ人にまで登りつめた!
おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた愛すべき助っ人たち。
今回は、ラルフ・ブライアントを取り上げていきます。
https://www.youtube.com/watch?v=9T3oCShrsVg&t=602s
1961年アメリカ合衆国ジョージア州で
生まれたラルフ・ブライアントは小学生の時、
兄に教えてもらい野球と出会います。
兄がオールバニア州立大学の野球部に入部すると
後に阪急ブレーブスで三冠王となる
ブーマー・ウェルズと
チームメイトになった事から、
自宅に遊びに来ていたブーマーとは
中学生の頃から面識があったそうですが
まさか十数年後に日本でタイトル争いを
する事になるなんて
その時は想像もしませんでした。
農業大学に進学したブライアントは野球よりも
アメリカンフットボールに夢中になり
ワイドレシーバーとしてNFL入りという夢を描きます。
しかしブライアントの打球を遠くへ飛ばす能力に
目をつけたロサンゼルス・ドジャースの関係者は
MLBドラフトで指名、一度は拒否されましたが
翌1981年、前回のドラフトで指名されながら
入団しなかった
選手を対象とした二次ドラフト1巡目で再度指名され
入団する事となりました。
2Aで年間31本塁打を放つなど4年間の
マイナー期間を経て
ついにメジャーデビューを果たしましたが
レギュラー定着とはいかず、
一軍と二軍を行ったりきたりの日々を送っていた
1988年の5月、
人生を大きく変える1つ目の転機が訪れます。
「名古屋も大阪もどこにあるか知らなかったけど
中日のスカウトが誘ってくれたから
迷いなく日本行きを決めたよ」と
ドジャースと友好関係にあった中日ドラゴンズに
年俸780万円で移籍が決まり、海を渡って来たのです。
俳優のエディ・マーフィにそっくりな
身長185センチ、体重94キロの助っ人は、
中日の二軍選手として
ウエスタンリーグに出場、26試合で打率2割7分5厘、
6本塁打の成績を残しました。
ただ当時は一軍の外国人は2名までというルールのため
不動の守護神、郭源治とクリーンアップ任されて
好調を維持していた大砲ゲーリー・レーシッチが
いる限り、昇格のチャンスは無いかと思われていた
矢先、2つ目の転機が訪れます。
パ・リーグ首位争いで独走していた
西武ライオンズを懸命に追う近鉄バファローズの
主砲リチャード・デービスが
6月7日、大麻不法所持により逮捕されたのです。
突然の事態に打率3割、7本塁打をマークしていた
主砲の大きな穴を急いで補強しなければ
ならない近鉄首脳陣は、数日前の二軍戦で
対戦相手だったブライアントが近鉄の投手から
バックスクリーンに本塁打を叩き込んだのを
見ていた事から、
長距離砲としての潜在能力を高く評価、
中日に譲渡を打診すると、
近鉄の権藤コーチが中日のOBであった事も
手伝って中日は申し入れを受諾、6月28日に
金銭トレードが成立しました。
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