ナイジェル・ウィルソンという男
1970年、カナダはオンタリオ州で生まれた
ウィルソンは
エージャックス高等学校を卒業した1987年、
ドラフト外でトロント・ブルージェイズから
指名をされ入団すると1992年、
コロラド・ロッキーズとフロリダ・マーリンズが
新規参入する事が決まり、戦力確保のために
既存チームの所属選手を分配するシステム、
エクスパンション・ドラフトが開催され
マーリンズに移籍した同年、
メジャー初昇格を果たしました。
3Aでオールスターに出場する活躍を
見せましたがメジャー定着とはならず
シンシナティ・レッズや
クリーブランド・インディアンスと
渡り歩いていた1996年、
日本のスカウトが別の選手をお目当てに
3Aの試合を視察していたところ、
荒削りだが類稀なる長打力を秘めた
ウィルソンをリストアップします。
「まだ27歳だしメジャーでプレーする
チャンスもあったために最初は
断りましたが、1、2年で帰って来ればいいかと
思い直して日本行きを決めたんです。
それが長い間いることになり、今でも
あの時の決断は正しかったと思っています」と語り
阪急ブレーブスで活躍した三冠王
ブーマー・ウェルズが引退後、
メジャーの代理人を勤めていた事から
ウィルソンのエージェントとなり
日本ハムファイターズと契約、
身長185センチ、体重94キロの助っ人は
海を渡ってきたのでした。
日本にやってきた助っ人は丸みのある顔と
その体型からプーさんの愛称で呼ばれたほか
同時期入団のジェリー・ブルックスと風貌が
お互いよく似ていると話題になり
「トムとジェリー」のコンビ名もつけられて
迎えたキャンプでいきなり戸惑う出来事に
直面します。
「キャンプ最初の3週間はランニングだけだと
聞いて驚いたよ。でも日本のやり方に
馴染もうと必死だったから
我慢して最後までやり遂げたんだ」と
初めて触れる日本の野球についていくと
指揮官の上田監督から声を掛けられました。
「スカウティングレポートに
肩を壊していてキャッチボールも
満足にできないと書かれているけど
どこなら守れるんだ?」と聞かれ
「DHです」と答えたそうです。
持病である膝痛の負担を避けるために
守備練習を避けたと言われた大砲は
指名打者専門の野手として開幕からスタメンに
名を連ねましたが最初の10試合で
打率1割6分2厘となかなか調子が上がりませんでした。
しかし名将上田監督は変える事なく
先発で使い続け、ウィルソンも
「選手にとってスタメンで出られるか
不安を感じながらの毎日は大きな
ストレスになりますがその心配は無く
気持ちを楽にさせてくれたのは
とてもありがたかったです」と信頼して
使ってくれる指揮官の期待に応えようと
4月中旬に初ホームランを放つと
あのレジェンドに並ぶ偉業を成し遂げるのです。
1997年6月21日の近鉄戦、第一打席で
シングルヒットを放つと準備完了、
4回の第2打席に特大のソロホームランを
かっ飛ばしたのを皮切りに6回の第3打席には
ライトポール際へ、7回の第4打席にも
左中間に3ランと脅威の打撃を見せたばかりか
9回の第5打席にも本塁打を放り込んで
1試合4打席連続ホームランという
王貞治氏以来、プロ野球史上2人目の
快挙をやってのけました。
さらに最初のシングルヒットも含めると
1試合17塁打のパリーグ記録も樹立、
最終的にシーズン通して
打率2割7分4厘、37本塁打、94打点の
成績で本塁打王に輝いたウィルソンは
「あの日は腰が痛くてプレーも厳しい
状態だったんです、だからスタンスを狭めて
体を起こし、バットを軽く握って
ゆったりとリラックスを心掛けたんです。
それが良かったんでしょうね。
本当に特別な瞬間になりました」
と真相を述べています。
翌1998年はブルックス、田中、片岡、西浦と
初代ビッグバン打線の中核を成し
チャンスにはランナーを返す
バッティングも覚えた事から
33本塁打、124打点の好成績で
ホームランと打点の2冠王を獲得、
ベストナインにも選ばれたほか
あのバースやブーマーも達成できなかった
来日から2年連続の本塁打王に
輝いた初の助っ人になりました。
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