田口 壮という男
今回は、田口 壮(たぐち そう)さんを取り上げていきます
福岡県で生まれたのち、父親の転勤により
千葉県、岡山県、兵庫県と転校を繰り返しながらも
3歳から始めた野球をやめることはなく、
進学した関西学院大学で守備はショート一筋、
打撃は
首位打者1回、最優秀選手1回、
ベストナイン4回を受賞するほどの素質で
一躍プロ注目の選手となりました。
1991年のドラフトでオリックス・ブルーウェーブと
日本ハムファイターズ競合の結果、
オリックスにドラフト1位で入団いたします。
その期待の大きさから、
オフに退団した福本豊さんの7を背負う可能性も
ありましたが、最終的には6に落ち着き、
いきなり、9番ショートで新人開幕戦先発出場を
果たしたのでした。
土井監督の厳しい指導でショートとしては
送球イップスに
なったことから、外野手に転向すると、
強肩病とイチローが絶賛していた肩を生かして
ゴールデングラブ賞の常連となります。
当時のオリックス外野陣は
イチロー、谷佳知とともに球界一
と言われ、イニング間にレフト田口とライト、イチローの
キャッチボールでファンを沸かせていました。
シュアなバッティングと堅実な守備はもちろん、
誠実かつ実直な性格で選手からの人望が厚く、
選手会長を務めるなど、オリックスの中心選手となり
1995年、1996年とシーズン連覇に貢献します。
打順は主に1番打者や3番打者を
イチローと入れ替わりながら
つとめると、
2000年のシドニーオリンピックでは、
オリンピックはアマチュア選手の晴れ舞台と出場を
拒んでいたイチローの心境を察して、代役で自分が出るからと
イチロー出場回避の嘆願を申し出て、
松坂大輔、中村紀洋らと共に、オリンピック野球日本代表として
参加したことで、メジャーリーグに挑戦し、
世界で戦ってみたいという気持ちを強くしたのです。
そして、その年のオフ、満を持して
FA宣言。
セントルイス・カージナルスと3年300万ドルで
契約し、入団会見場に貼られた横断幕には
「TAQUCHI」タクチと書かれるオマケ付きで
ついにメジャーリーガーとなったのでした。
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