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佐々木 主浩という男

今回は、佐々木 主浩(ささき かづひろ)さんを取り上げていきます。

森永乳業に勤める父親の影響で水代わりに飲んでいた
牛乳のおかげか、幼稚園の頃から背が高く、
3歳の時にビニールのバットとボールを
買ってもらったことから野球に出会いました。

小学校でも頭一つ抜けて大きく、
宮城県仙台市の少年野球チームでは
エースで4番となり、中学校の野球部に入ると
主に野手として活躍します。

身長185センチまで伸びた立派な体格から
野球の強豪校である東北高校にスカウトされますが、
両親や担任の先生からお前じゃ無理だと反対されました。

しかしその反対を押し切って進学した佐々木は、
後に阪神タイガースに入団する同級生、葛西稔や
横浜ベイスターズでも一緒になる後輩の斎藤隆らとともに、
持病の腰痛とも闘いながら
2年の夏からエースとして甲子園に3回出場、
3年の春夏ともにベスト8まで進出しました。

当時の球種はストレートとカーブのみでしたが、
卒業後はプロからの誘いもあったものの、
腰痛の懸念や両親の希望もあり、大学進学の道を選びます。

大学はオシャレな青山学院へ行きたかった佐々木でしたが
監督から、お前は東京へ行ったら遊ぶから駄目だと反対され、
黄金期を迎えていた地元の東北福祉大学へ進学すると、

のちにプロの世界で共にしのぎを削る、
大塚孝二(おおつか こうじ)、矢野輝弘(やの あきひろ)
金本知憲(かねもと ともあき)らとチームメイトになりました。

1年生の時に理不尽な先輩とケンカ、懲罰で八回も坊主されるという
ヤンチャな記録はいまだに破られていないそうですが、
野球の実力は折り紙付き。
腰痛が快方に向かった3年の春には、フォークボールをマスターして
無傷の11勝、防御率0.39という数字を残し、
全日本大学野球選手権で2度の準優勝を飾ると
即戦力の投手として1989年、ドラフト上位指名の目玉となりました。

ただ本人は腰の手術を受けたこともあり、僕は欠陥商品ですから、と
プロ入りを拒否、社会人のヤマハへ進むつもりでしたが
横浜大洋ホエールズが1位で強行指名して説得。

入団させると、2月22日、午後2時22分に生まれたことから
背番号は自身のラッキーナンバー
22に決まり、プロ野球選手としてスタートラインに立ったのです。

入団1年目は須藤監督のチームで最もいい投手が抑えをやるべき
という方針から
遠藤一彦が抑えを務め、佐々木は先発として起用されていましたが
翌年、遠藤の故障により抑えを任されると、
速球と落差のあるフォークボールを武器に
一気にその才能が開花、8月には
見逃し5球、空振り4球の三者連続3球三振と
1球もバットに触れさせることなく抑え込みました。

1992年には開幕から1年間ストッパーを努め、
中継ぎの盛田幸妃から佐々木への継投リレーが勝利の方程式とされ
他球団からは、横浜との試合は盛田、佐々木の登板しない
7回までが勝負だと言われていました。
この年、見事、最優秀救援投手に輝くと、

1994年頃から大映のキャラクター「大魔神」に似ていて
新聞記者が相手チームの前に立ちはだかる魔人と表現したことから
「ハマの大魔神」という異名(いみょう)が定着、
1995年、30セーブ越えに防御率1点台、史上最速となる500奪三振に
3年ぶりの最優秀救援投手にも輝き、
横浜の生え抜き投手としては
初の1億円プレイヤーとなったのでした。

1996年も最優秀救援投手を獲得、さらに
1997年にはシーズン無敗、防御率0点台という
絶対的守護神となり、万年最下位だったチームの
2位躍進の立役者となり
3年連続の最優秀救援投手のタイトルも獲得します。

そして、佐々木が伝説となる年、1998年は、
51試合に投げて防御率0.64、212人の打者と対決して被本塁打1。
自責点はたったの4点。
22試合連続セーブポイントに通算194セーブ、
史上初の2年連続30セーブ以上、
歴代最多45セーブに、4年連続の
最優秀救援投手賞など、当時の
日本記録を次々と塗り替えていくと、

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