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ラリー・パリッシュという男
1953年、フロリダ州で生まれたパリッシュは
セミノール短期大学を卒業後、
モントリオール・エクスポズに入団すると、
のちに巨人で活躍するチームメイト、
クロマティとともにメジャーに昇格します。
1975年からは三塁のレギュラーとして定着、
1979年には30本塁打を放ちましたが
1981年、本塁クロスプレーの際に
左ヒザじん帯を断裂するという大怪我を負いました。
三度の手術により
特注のサポーターで固定しながらの
プレーを余儀なくされましたが
1982年からテキサスレンジャーズ、
1988年からはボストン・レッドソックスと移籍し
メジャー在籍15年間
で256本のホームランを
放った大物は1989年、そのパワーを期待され
ヤクルトスワローズに入団します。
ア・リーグ、ナ・リーグの両リーグで
30本塁打を放ち、1試合3本塁打を四度、
1週間で満塁弾3発のメジャー記録も
保持していた身長190センチ、99キロの
超ビッグネームは、
「アメリカで一緒にやっていた
クロマティやガリクソンとまた同じ日本で
プレーするなんて夢にも思わなかったけど
ヤクルトから提示された金額が高かったからね」と
入団の動機を語り、年俸9000万円で海を渡ってきたのでした。
36歳という年齢に加えて
膝の怪我という懸念材料から活躍に疑問符が
つけられましたが
「追い込んだら変化球で勝負してくる日本の野球は
ア・リーグでプレー経験のある私には問題ないよ。
クリーンナップとして走者
をかえす事で給料を貰っているんだから
25本塁打、80打点以下であったら納得出来ないね」
と自信をのぞかせ、
オープン戦で打率3割7厘、7本塁打と
打ちまくり、周囲の不安を一掃します。
シーズン開幕直後の4月から5試合連続本塁打を
ふくむ6本塁打に打率3割2分、13打点の
成績を残すと、
5月には打率3割4分3厘、11本塁打、
20打点の活躍で月間MVPも獲得しました。
「大リーグでも通用するスラッガー、
原辰徳とタイトルを争えるなんて光栄だね」と
舌も滑らかとなり
最終的には42本塁打、103打点をマーク、
1年目から本塁打王とベストナインに輝いたのです。
その活躍に異例の専属通訳もつけられて
迎えた1989年のオフ、
年俸1億円で再契約となるはずでしたが
新たに就任した野村克也監督から
「確実性のない奴はいらない」と三振が多い
パリッシュの残留にNGが出され
ホームラン王にも関わらず解雇されたのでした。
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