グレッグ・ラロッカという男
1972年、アメリカ合衆国ニューヨーク州で生まれた
本名、グレゴリー・マーク・ラロッカは、
マサチューセッツ大学アマースト校を
卒業した1994年、
MLBドラフト10巡目でサンディエゴ・パドレスから
指名を受け入団しました。
1997年に2Aモバイルベイベアーズ、
1998年には3Aラスベガス・アビエイターズと
順調にステップアップしていくと
2000年の9月7日、登録枠が拡張される
セプテンバー・コールアップにより
メジャーデビューを果たします。
シーズン終了までの13試合に出場し、
27打席に立つと
2本のツーベースに4本の単打を放ったほか、
サード、ショート、セカンドと
3つのポジションを守る器用さも見せました。
その後
クリーブランド・インディアンスに移籍して
再びマイナー暮らしをしていた2003年、
3Aで打率2割9分、10本塁打、68打点の成績を
あげた事から、シーズン終盤に
メジャーで5試合に出場、
9打数3安打、打率3割3分3厘と
ようやく才能の芽が咲き始めたのです。
ちょうどその頃、新たな助っ人を探していた
広島カープのスカウト、
エリック・シュールストロムは
広角に打ち分けるシュアなバッティングと
内野なら何処でも守れる堅実な守備に加えて
年俸2700万とお買い得だったラロッカに
目をつけて交渉を開始すると
32歳と脂が乗り、出場機会に飢えていた
身長181センチ、体重81キロの助っ人は
海を渡ってきたのでした。
来日当初、春季キャンプに参加した
ラロッカは日本式の長い練習に
戸惑いながらも、異国の地で
チャンスを掴んでやろうと
プロになって初めて左手の親指にマメが
できるほど、アメリカ時代の何倍も
バットを振り込んだのです。
さらにパドレス時代のスプリングキャンプで
交流があり、一足先に広島に入団していた
アンディ・シーツと史上初の
外国人二遊間を結成すると開幕直後こそ
打率2割前半と低迷しましたが
日本の野球に慣れてきた5月には、打率3割9分に
8本塁打と調子を上げ始め、前半戦だけで
26本のアーチを描きました。
7月には不振のシーツに代わって
4番ファーストを任され、嶋と共に
クリーンナップに座ると高打率をキープ、
最終的に122試合で打率3割2分8厘、
40本塁打、101打点と
入団会見で掲げた打率3割、15本塁打の目標を
遥かに超え、最高出塁率とベストナインの
タイトルを獲得したばかりか、広島では
山本浩二以来2人目の3割40本塁打
100打点もクリアしたのです。
40本のホームランのうち、およそ半分にあたる18本が
センターからライト方向への打球となり
変化球を苦にしない
バッティングで三振はわずか66と、
前評判通り広角に打ち分けたほか、
満塁の場面では3本塁打に打率5割を超える
勝負強さも兼ね備えていました。
また打つ方だけでなく
次の塁を狙う
ヘッドスライディングで
シングルヒットをいくつも二塁打に変える
アグレッシブな走塁も大きな武器となり
盗塁数はチームトップの11を数え、
常にボールに向かっていく
血気盛んな打撃スタイルで
内角の厳しいボールを恐れなかった事から
23死球とリーグナンバーワンの
デッドボール王だったのです。
4番として期待された2005年は、前田と共に
チーム27年ぶりの快挙となる1試合2つの満塁本塁打を
かっ飛ばすなど一定の活躍を見せましたが
左足肉離れや指の骨折など度重なる故障にも泣き
満身創痍の状態でわずか80試合の出場にとどまると
打率3割3厘、18本塁打、
56打点の成績に終わりました。
球団は二遊間強化の方針を掲げて、台頭してきた
新人の梵を積極的に起用し、
一塁や三塁にも新井と栗原がいたことから
ケガの多い助っ人はブラウン新監督の構想外となり
トム・デイビー、ケニー・レイボーンと共に
この年限りで自由契約になります。
しかし2年間の満塁通算打率が6割を超える
内野手は古田兼任監督率いるヤクルトスワローズの
補強ポイントと一致、入団した2006年は同僚となった
アレックス・ラミレス、アダム・リグスら、
外国人野手3人で強力なヤクルトの中軸を形成し、
ファンの公募でつけられた「F-Brothers」という
愛称で親しまれました。
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