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【上原浩治】エリート街道とは全く無縁のいばら道を突き進みアイツらには絶対に負けないと反骨心だけで世界の頂点まで登り詰めた雑草魂の体現者で日本人初のワールドシリーズ胴上げ投手

割引あり

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、上原 浩治(うえはら こうじ)さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=LTrj5V5m4wg&t=438s

父親が監督を務める大阪府の少年野球チームに入って
野球を始めた上原は、自転車で通えて野球が強いという理由から
東海大学付属仰星高等学校に進学します。

中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれ
外野手となりましたが、練習でバッティングピッチャーを
担当していた事から、3年の時に投手に転向するも
後に日本ハムファイターズを経て
テキサス・レンジャーズでメジャーリーガーとなる同級生
建山義紀(たてやま よしのり)の控えという立場でした。

卒業後は体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学を
受験しましたが不合格、浪人してもう一度受験する事を決意すると
家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトをしながら
再度受験して見事合格、1年遅れで野球部に入りました。

大学選手権の準々決勝、ドラフト上位候補であった
東北福祉大の門倉健と投げ合うなどプロのスカウトから注目される存在となり、
日米大学野球選手権では大会タイ記録となる14個の三振を奪って
自信をつけた上原はプロ入りを決意、
大学4年間で通算リーグ優勝5回、36勝4敗、最優秀投手賞4回という実績に
メジャー4球団も獲得に乗り出すなど、松坂大輔と並び、
1998年ドラフトの目玉となりました。

最終的にアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツによる
争奪戦となりますが、巨人ファンであった父親の意向や
長嶋監督からの説得もあり巨人を逆指名、1位で入団すると、
こんなところで負けてたまるかと常に心を燃え上がらせ、
どん底であっても一番ギラギラしていた。と語る、19歳の
浪人時代を忘れないように背番号は19を希望します。

1999年、プロ1年目から先発投手の一人として
毎週日曜日に登板したため、サンデー上原と呼ばれ15連勝を記録。
10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦、松井とペタジーニの本塁打王争いを
援護するため、ここまで14打数無安打と完ぺきに抑えていた
ペタジーニを敬遠しろというベンチの指示に
悔し涙をぬぐいながらも試合には勝利し、最多勝となる20勝目を挙げたのでした。

新人ながら最優秀防御率、最多奪三振、ベストナイン、沢村賞など
タイトルを総なめにしただけでなく、自身の座右の銘、雑草魂(ざっそうだましい)は
松坂大輔のリベンジと共に1999年の流行語大賞にも選ばれます。

2000年、2001年は、太ももの肉離れにも悩まされましたが
2002年、17勝をあげて再び最多勝に沢村賞、ベストナインを受賞すると、
オフに行われた日米野球でバリー・ボンズと対戦。
3打席連続三振を奪い、メジャーのスカウトからも注目も集めました。

2003年も16勝をあげ最多奪三振とゴールデングラブを獲得。
2004年はアテネ五輪出場により一時離脱がありながら13勝を記録し
入団6年目で史上最速の年俸3億円に到達すると、ポスティングシステムによる
メジャー移籍を志願します。

FA権を取得するまでの違約金として年俸から8500万円を支払ってでも
メジャーに行きたいと直訴しましたが、エースとなった上原を
球団が手放すわけもなく、夢は叶いませんでした。

一旦その気持ちは封印して臨んだ2006年、
7年連続の開幕投手を務めると、2007年、チーム事情から抑えとして
起用される事になります。

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