見出し画像

高橋建という男

割引あり

世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、高橋建さんを取り上げていきます。

小学4年生のときに野球を始めた高橋は
持病の喘息に悩まされながらも
その才能の片鱗を見せ、名門の横浜高校に進学。

投手としての素質を見込まれ
足利工業高校の石井琢朗との試合で先発を
任されることもありましたが、主には長距離砲として
ファースト兼センターで活躍しました。

その後、柔道部主将として全国優勝を成し遂げた父と
同じ拓殖大に進むと、4番として大学通算17本塁打を
放ち、スラッガーとしてチームに貢献していましたが、
4年生のとき、監督の強い要望で投手へ転向したのです。

すると、大学卒業後に進んだ
トヨタ自動車でその才能が一気に開花します。

150キロを超える速球派左腕は、プロからも
注目を集める存在となりました。
日本代表入りも経験、社会人2年目のドラフト
では、8球団から上位候補として名前が挙がるほどの
注目選手となりましたが、

都市対抗で結果が出なかったことからトヨタ自動車は
チームの柱である高橋を慰留。
気持ちの優しい高橋も、その意向に沿う形で会社に
残留したのです。

ところが社会人3年目に左肩を痛めてしまいます。
注目されていた時とは違い、ドラフト上位指名どころか
プロ入りも諦めかけていたところに幸運が舞い込みます。

広島カープで先発の柱だった川口がFA権を行使。
チームの慢性的な左腕不足も相まって
左腕の穴を埋める存在として高橋に白羽の矢が立ったのです。

当時のスカウトいわく、拓殖大学は2部リーグだったので
あまり見ていなかったのですが、社会人野球、四国大会を見て、
こんないいピッチャーが大学にいたのか
と思ったのを覚えています。

見ての通り、顔も言動も優しくて紳士的、
優しすぎて心配になるくらい。
26歳でプロ野球選手になりましたが
すでに立派な社会人として完成されていました。
入団した時は結婚してお子さんもいて
子連れルーキーでしたから、これから保証のないプロ野球の世界で
家族を養っていくんだ、という気構えは持っていました。

と語っています。

広島東洋カープにドラフト4位で入団すると、
チーム事情から、先発にリリーフにとフル回転で
孤軍奮闘します。

開幕2戦目からリリーフとして初登板、7戦目には初先発。
2000年には、キャリアハイとなる50試合に登板、
しかも先発10試合という、
貴重な左の中継ぎ、ときには先発として
大車輪の活躍により
オールスターゲームにも選出されました。

翌年からは山本浩二監督の意向もあり
本格的に先発に転向、
10勝8敗の成績を残し、
2003年は150km近いストレートと
鋭いシュートを武器に開幕から8連勝、
防御率も1点台と広島の左腕エースとなりました。

2004年、2005年は、膝の故障が原因で
思うような投球ができず、引退も考えましたが
前年の半額となる年俸を受け入れ、契約、
現役を続行すると翌年、中継ぎ左腕として
キャリアハイ更新の54試合に登板、39歳にして
ファン投票1位となりオールスターにも出場を果たし
完全復活を遂げたのでした。

広島一筋66勝を挙げ、それなりのポジションや待遇が
約束されていたはずでしたが、
元チームメイトの黒田博樹が海を渡り、
メジャーリーグでシャンパンファイトをしながら
優勝の美酒に酔いしれている姿や
横浜高校の後輩、松坂大輔が野球を心から
楽しんでいる笑顔をテレビモニター越しに見ながら
メジャーで投げてみたい、夢を叶えたい、
優勝してみたいという欲求を抑えられませんでした。

そして、最初のフリーエージェント時に、
獲得の興味をもってくれていた
トロント・ブルージェイズとマイナー契約を交わし、
40歳目前にしてメジャーリーグに挑戦したのです。

ここから先は

2,172字

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!