斎藤隆という男
今回は、斎藤隆さんを取り上げていきます
36歳からメジャーリーグに挑戦した
映画さながらのオールドルーキー。
引退間際の思い出作りだと、揶揄され、
無謀な挑戦だと周囲は反対しましたが、その功績は
輝かしいものとなりました。
後にピッツバーグ・パイレーツ入りした桑田真澄も、
この斎藤の成功が38歳の自分に
メジャーリーグ挑戦を決断させたと語っています。
宮城県仙台市に生まれ、甲子園出場経験のある兄がいる
東北高校野球部に入部。
2つ上の先輩に佐々木主浩と葛西稔が在籍しており、
自身も5番ファーストとして甲子園の土を踏みました。
東北福祉大学2年時に監督の勧めで
本格的に投手に転向、
チームメイトに佐々木主浩、矢野燿大、金本知憲など
錚々たる(そうそうたる)顔ぶれが揃っていたことも
影響してか、あっという間に
大学球界を代表する投手に成長したのでした。
横浜大洋ホエールズと中日ドラゴンズで競合の結果、
ドラフト1位で横浜に入団。
同期入団の三浦大輔らとともに、チームの柱となっていきます。
スリークォーターから投げ込む
スライダーとバッターの手元で鋭く変化する
フォーシームを武器に投げ続け、
38年ぶりの日本シリーズでは初登板初完封の活躍で
優秀選手賞およびカムバック賞を受賞、日本一に貢献しました。
1999年オフ、ハマの大魔神、佐々木主浩が
シアトル・マリナーズへ移籍することになり、
クローザー不在のチーム事情から斎藤に
ストッパーとして白羽の矢が立ち、抑え投手に転向。
ハマの新魔神と呼ばれ、躍動したのです。
2002年のオフ、順調に抑え投手として活躍してきた
斎藤はフリーエージェントの権利を獲得。
メジャーリーグに行きたいと移籍を模索しましたが
家族のことを考えて、自身の夢を封印、
3年7億3000万円で横浜残留を決断いたします。
しかし本人の中で、自問自答を繰り返します。
生活も何不自由なく、家族も幸せなのに
満たされない思い。このまま野球人生終わっていいのか、
最後は、しぼむのではなく、やりきって辞めたいと。
そして、36歳のとき、
一度でいいから夢であったメジャーで投げたいと
反対する家族を説得します。
年収が数億円からゼロひとつ、ふたつ落ちることから
友人、知人、家族、全員から反対される中、
退路を断ち、家族を残して米国に渡った斎藤の
挑戦がここから始まったのです。
当然、高齢のオールドルーキーと契約する球団はなく
苦戦を強いられますが、キャンプインぎりぎりの2月にやっと
ロサンゼルスドジャースと3000万円のマイナー契約に
こぎつけました。
当初は思うように成績があがらず、さらに下部組織へと
降格し、開幕戦をスタンドで観戦する悔しさも味わいます。
しかし、開幕直後、クローザーを務めていた
エリック・ガニエが故障したため、入れ替わりでメジャーに
昇格すると、本来の実力を発揮し始め、
登板8試合目まで無失点の好成績を残して、
セットアッパーからクローザーに指名され
15試合連続無失点を記録。
監督は、彼をクローザーに持つということは
銀行に貯金がたくさんあることと同じ。
あのスライダーがある限り、崩れることはないと
全幅の信頼(ぜんぷくのしんらい)を勝ち取っていきます。
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