イムチャンヨンという男
1976年、韓国で生まれたイムチャンヨンは
高校時代には4番打者も任され、のちに
メジャーリーガーとなるソジェウンや
キムビョンヒョンから本塁打を放つなど
投打で野球の才能を見せていました。
1995年、ヘテ・タイガースに投手として入団し
プロ生活をスタートさせた右腕は
中日に移籍したソンドンヨルの後を
継いで抑えに起用されると
1998年には最優秀救援投手のタイトルを
獲得するなど投手陣の柱となります。
サムスン・ライオンズに移籍後は
さらにギアを上げ
71試合で130イニング以上と投げまくり、
どんな場面でもマウンドに呼び出されるほど
登板過多気味だった事から
サムスン電子の携帯電話名からエニ・コールと
呼称されました。
シドニー五輪では銅メダルを獲得し
先発に転向すると、2002年シーズンで
17勝を挙げた右腕は、メジャー移籍を希望して
ポスティングシステムを利用しましたが
わずか50万ドルの入札金額に
球団側が難色を示した事から破談となったのです。
すると今度はFA権を行使して
日本に移籍先を求め、
東北楽天ゴールデンイーグルスや
福岡ソフトバンクホークスに自身の映像を
送ったものの契約には至りませんでした。
強い海外志向を封印して
サムスンに残留した2004年から再び抑えを
任されるようになると、登板過多から
来る疲労により肘を故障したほか
5000万円という高年俸や海外移籍を巡る
球団との対立から不本意なシーズンを送っていた
イムチャンヨンは、オ・スンファンという絶対的な
守護神を見つけたチームの中で
存在感を無くしていきます。
2007年シーズン終了後、
戦力外となったのをキッカケに
再び日本球界を目指した右腕に対して
「右肘にメスも入れているし、もう終わった選手」
と韓国国内では冷ややかな反応でしたが
ヤクルトスワローズは
年俸30万ドルの2年契約を提示、
身長182センチ、体重80キロの助っ人は
海を渡ってきたのでした。
「コントロールとスピードに自信はあったけど
それだけじゃ日本で通用しない、
変化球を磨かなければ」と
来日直後からスライダーとチェンジアップの精度を
高める事に集中すると
抑えを務める予定だった五十嵐が故障した事から
クローザーを
任されるようになります。
押本(おしもと)、松岡と勝利の方程式を確立した助っ人は
エディ・ギャラード以来となる
日本デビュー初年度からの30セーブを達成、
前評判を覆して燕の守護神になった翌2009年、
WBC韓国代表のクローザーに抜擢されました。
「ドジャースタジアム史上最も心に残る10回」と
地元紙に絶賛され、キューバのカストロ議長が
「想像できる限り最も緊迫した試合の一つ」と称賛した
決勝戦でイチローに2点適時打を打たれ
敗戦投手になると、韓国では敬遠のサインを無視して
独断で勝負を挑んだと非難されたのです。
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