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ビル・マドロックという男

割引あり

今回は
ビル・マドロックを取り上げていきます。

1951年、アメリカのテネシー州に生まれ
アイゼンハウアー高校時代には野球の他、
バスケットボールや
アメリカン・フットボールでも活躍しますが
1969年、MLBドラフト11巡目でカージナルス
から指名をされるもこれを拒否、
サウスウエスタンアイオワコミュニティ大学に
進学します。

翌年、MLB二次ドラフトで
テキサス・レンジャーズから
5巡目で指名されると一転して入団、
3年後の1973年9月7日、アスレチックス戦に
7番サードでメジャーデビューを果たすと
7回に内野安打を放って初ヒットも記録しました。

最終的に85打席に立ち、打率3割5分1厘で
シーズンを終えると
カブスの看板打者ロン・サントの後継者として
シカゴ・カブスに移籍します。

すぐにサードのレギュラーポジションを奪取し
打率3割1分3厘に新人王投票で3位となる
活躍を見せた翌年には
オールスターゲームでMVPを獲得したばかりか
3割5分4厘の高打率を残して
ナショナルリーグ首位打者にも輝きました。

1976年もケン・グリフィーとのデッドヒートの末、
最終戦で4安打の固め打ち、打率を3割3分9厘まで
引き上げたことで、2年連続の首位打者を手中に
収めるなど、メジャー屈指の巧打者として
その名は不動のものとなりますが非凡な打撃センスを見せる反面、
性格は恐ろしく短気で
暴れん坊、判定に納得がいかないと闘志むき出しで
審判を小突くのは当たり前で、
ブラッシュボールを投げられようもんなら
激怒してマウンドを急襲したり
激しいスライディングで多くの選手にケガをさせ、
罰金を受ける事もしばしば。

さらに
インタビューを受けている最中にちょっかいを
出してきた同僚に怒り狂って乱闘騒ぎを起こすなど
10回以上も退場処分を受けた血の気の多さから、
マッドドッグ、狂犬と呼ばれたその性格に
球団は手を焼いていました。

そんな扱いにくい選手だった事情も相まって
好成績は残しましたが、シーズン終了後に
サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍、
守備位置もセカンドにコンバートされますが
迎えた2シーズンも連続で
打率3割超えを達成するのです。

1979年にはプレーオフを見据えた
ピッツバーグ・パイレーツに
シーズン途中で移籍すると
ウィリー・スタージェルや
デーブ・パーカーらとともに大活躍、
ワールドシリーズまで勝ち進み、
ボルチモア・オリオールズとの頂上決戦では
打率3割7分5厘と驚異的な打撃を見せて
チームを世界一に導いたのでした。

さらに2年後の1981年は
打率3割4分1厘で3度目の首位打者を
獲得したばかりか
1983年にも打率3割2分3厘と天才アベレージヒッターは
留まることを知らず、なんと4回目の首位打者に輝きます。

複数球団で複数回、首位打者を取った選手は
MLB史上初めての快挙だったほか、
マドロックがメジャーに在籍した1973年から1987年の
15年間でナショナルリーグ首位打者になった右打者は
他にいませんでした。

その後ロサンゼルス・ドジャース、デトロイト・タイガースと
移籍して迎えた1987年、2番DHとして先発出場したブルージェイズ戦で
2000本安打も達成したメジャーリーグの超一流バッターは
夏頃から
「シーズンオフの契約がまとまらなかったら、
日本へ行くことになるだろう。オレの代理人が日本の
パシフィック・リーグの球団とコンタクトをとっているところだ」
と語っているという話が漏れ聞かれるようになり、
アメリカの記者の間でも
「首位打者マドロックが日本に行くかもしれない」
「いやいや彼はデトロイトが好きだから日本に行く事はない」
「ただDH専門の36歳では大リーグで契約は難しいだろう」
などなど、周辺が騒がしくなっていきます。

ちょうどその頃、ロッテ・オリオンズは長年チームを支えてくれた
功労者レロン・リーを成績不振と高齢を理由に解雇し
新たな大砲を探しているところ、売り込みにきたマドロックに
白羽の矢を立てると、メジャー最終年の年俸85万ドルより
20万ドル高い105万ドルで契約、メジャーで首位打者4回の
超大物は海を渡ってきたのでした。

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