俺が退去した後の部屋が事故物件のはずはないのだが(仮)
私は以前、神奈川県の東京寄り、新宿から三、四十分の所に住んでいた。1Kの賃貸マンションなのだが、色々と環境が良かったので二十年以上住み続けていた。一階角部屋。住宅街のど真ん中で車もあまり通らない。その上、米軍基地から上空を飛行機が飛ぶエリアだったため、県や市の補助で防音工事が施されていた。これは朗読やナレーションで音声録音を頻繁にする私にとって最高の環境であった。
とはいえ、活動が都心中心だったため、新宿から電車一本であっても移動のコストはそれなりにかかる。ついに長年慣れ親しんだ土地を離れて引っ越すことになった。
新しい住居は中央線沿線。終電が無くなっても新宿から歩いて帰れるくらいの距離というのが選ぶ目安だった。家賃は高くなったが利便性を買っていると思えばお釣りが来るという感覚だった。 ところが――
問題があった。インターネット回線の通信環境が悪かった。Webサイトの閲覧などは問題なかったのだが動画のアップロードが遅かったり配信が途切れたりすることが頻繁に起きた。いわゆる〈上り〉の通信能力が足りないのである。インターネット回線の能力を表わす数字は補償された数値ではないので周囲のユーザーの使用量や時間帯によってその数値の数パーセントしか使えないということもあり、契約は博打だとも言える。いわば博打で外したわけだ。
以前の住居では表向きの数値は今より小さいにも関わらずそんなことはなかった。それを考えると引っ越しは失敗だと思った。いっそのこと元の住居に戻ろうかとも思った。
どうせ次の入居者がいるだろうと思いながらも試しに賃貸情報サイトで元の部屋を検索してみたところ、空き部屋とのこと。これは意外だった。少なくとも私にとっては最高の住み心地で、それゆえに長年住んでいたわけで、そんないい部屋だから借り手はすぐに付くだろうと思っていた。
私は興味本位で不動産会社に電話してみた。
「以前〇〇の〇号室に住んでいた〇〇ですけど、その後、誰も入居していないようなんですが、どうなんでしょうか。またお借りしようかなとも少し考えているんですが、次の借主がいらっしゃらないのも不思議だなと思って」と言った感じで話した。すると
「ああ……そうなんですよ。入居希望者はたくさんいらっしゃるんですけど、内見後の反応が良くないんですよ。もう二十件くらいあるんですが」
「え? どんな感じの反応なんですか」
「あの……申し上げにくいんですが……長年のお付き合いがあるのでお話ししますね。その……空気が重たいとか、そういった感想を多く頂きまして。ご存知のとおり日当たりは良いですし、内装も綺麗にしましたし、雰囲気は悪くないと思うのですが。言われてみれば私もそういった重たいものを感じられなくもないんですね。で、中には〈視える〉とおっしゃる方がいらっしゃいまして、ぼんやりとではありますが……その……人のようなモノが視えると」
それが事実だとすると、その霊のようなモノは何なのだろうか。私は何も感じなかった、知らなかった。まさか入居する前からいたのだろうか。私は確かにそういったものには感覚が鈍い方だ。だとしても、長い間何人も来客があったがそれらしいモノが居たとか感じたとかを口にする人は一人もいなかった。
もしかすると私が置いて行ったとも考えられる。だとすればどんな存在なのか――。
ひょっとすると、新しい住居のネット環境の悪さを予見して、私が戻ってこられるように守ってくれていたのかもしれない。
―― 了 ――
(この話はフィクションです)