抜きますか
田中さんという五十代の男性の話である。
彼は一年前に今の職場に転職した。人間関係はおおむね良好だが、一人だけ、佐藤という厭な先輩がいた。先輩といっても歳は10歳下で、なにかと田中さんに突っかかる。田中さんが入社した初日、まだ仕事を教わっている最中に通りかかり「使えねぇな」とはっきり聞こえる声で呟いた。それ以降、毎日毎日〈使えない〉を証明するのが目的であるかのように、田中さんの粗を探しては叱りつける。あまりに理不尽な場合には反論することもあったが、度重なる叱責に田中さんの憎しみは次第に増していった。
田中さんの前歯がグラグラするようになったのはその頃からだ。右上中切歯。かなり昔に虫歯の治療をした歯だ。治療が不完全だったのか、原因はわからないがとにかくグラグラする。歯周病かとも思って殺菌効果のある歯磨き剤を試したのだが、改善するどころか次第にプラプラしてきて抜け落ちないのが不思議なくらいになった。歯医者が嫌いな田中さんでも、さすがになんとかしなければいけないかなと思いはじめていた。
ある晩。田中さんは仕事が終わって駅から自宅へ帰る途中、公園の脇に見慣れない建物が建っているのに気づいた。細い道に面した敷地の奥にこぢんまりとした平屋があり、うっすらと灯りがともっている。彼は気になって足を止めた。ここにこんな建物があったろうか。何かが建っていたイメージすら浮かばない。新築というわけでもないようだ。
見ると看板らしきものが掲げられている。とはいっても商業的なデカデカと派手なものではなく、何が書いてあるのか読めない。余計気になって近づいていくと、どうやら歯科医院の看板らしい。看板というより診察日や時間が書かれた案内板のようだ。
本当にここに歯科医院があったかと、田中さんは首を傾げた。とはいえ、ちょうど歯の治療を検討していたときである。通うにはもってこいだ。ここで治療を受けようか。そう思って彼は書かれた文字をあらためて眺めていた。
と、おもむろにドアが開いた。出てきたのは若い女性。今どき珍しい、丈の短いナース服を着ている。なんだかコスプレっぽいが、さすがにナースキャップは着けていない。歯科衛生士か助手かわからないが、とにかくこの医院の人だろう。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
「田中さんですね。お待ちしておりました」
「え? いや、あの、通りかかっただけで……」
はじめて存在を知ったわけだから予約などしていない。
「田中一郎さんですよね」
「え? そうですけど」
田中さんの下の名前はまさに一郎である。ありふれた名前とはいえ、フルネームで一致している。こんな偶然があるのか、おかしいなと首を傾げる。
「お入りください」
「いや、その……」
戸惑うのもお構いなしで、腰を押されて中へ導かれる。
中へ入ると正面に廊下があり、右手に受付、左手に待合のベンチが二台。ありきたりのレイアウトだが、こういった医院にしては室内はあまりに暗かった。見回しながら田中さんは「違うんです。私じゃないんです」と誤解を解くタイミングを探っていたが、異様な雰囲気に飲まれてその一言が出てこない。
ナース服の女性は受付表をちらりと見て「診るだけにしますか? それとも抜きますか?」と言った。
抜きますか? 私の歯の状態がわかっているのか。人違いにしては症状まで合致している。これは果たして偶然なのか。
驚きながらも田中さんの目は彼女の全身に注がれていた。薄いピンクのナース服に包まれた身体はふくよかで、空いた胸元、短いスカートから露出している脚が暗い中にも眩しく輝いている。整った顔は化粧は濃い目だが、とにかく色っぽい。
田中さんはおやと思った。〈抜きますか〉というのはそっちの意味だったのか。イメージプレイというものがあると聞く。するとここは建物まで作り込まれた、歯医者に特化した風俗店なのか――。急に胸が高鳴る。一度そう思ってしまうと、もう、そうとしか思えなくなった。予約していないことなどどうでもいい。たとえ後から本物の田中一郎さんが来たとしても知ったこっちゃない。もうとにかくワクワクしかない。
「こちらへどうぞ」
ナース服に腰を押されて部屋へ通される。そこはまさに治療室。診察台もリアルに作られており、仰向けに寝そべってプレイするには丁度良い。壁には棚が並んでいて治療器具らしき物がいっぱい入っている。だが照明はやはり暗い。そこだけはリアルではないようだ。明るくては困るのだ。
「こちらに寝てお待ちください」
掌で診察台を差す。それから澄ました顔をして彼女は出ていった。
彼女が相手をしてくれるのではないのか。それとも準備をして再度入ってくるのか。いずれにしても彼には期待しかなかった。
ずいぶん待たされた気がする。奥の扉が開いて誰かが入ってくる。仰向けに天井を見ているので姿は見えないが、コツコツと靴音が診察台に近づいてくるのがわかる。どんなコだろう。先ほどのコならいいが――。靴音はすぐそばで止まる。
「抜きますか?」
しわがれた声がした。驚いて田中さんはそちらに首を向ける。と、そこには声に相応しい、歳を召した女性の顔があった。
(ちょっと待ってくれ、この女性が俺の身体を――勘弁してくれ)
田中さんは思わずガバッと身体を起こした。
もう一度彼女を見ると、確かに歳を召しているが、背筋はしっかり伸びていて意識ははっきりした立派な熟年女性のようだ。声と言葉も理知的でしっかりとしていて、歯科医師に相応しい人物に思えた。
そうか、〈抜きますか〉というのはやはりこっちの意味だったのか。田中さんは、邪な考えを持った自分を恥じた。それと同時にこの女性が相手じゃなくて良かったという思いと、そういう店じゃなかったという残念な思いと、じつに複雑な思いで診察台に寝そべり直した。
ベテラン女性歯科医師は、ぽっかり開いた田中さんの口の中を覗き込んだ。
「ああ、これね、虫歯の治療したところに菌が入り込んで中から腐ってますよ。抜きますか?」
「はい、お願いします」
彼女はゴム手袋をはめると田中さんの顎を掴んで拡げ、プラプラしている前歯をつまんで揺らした。それから傍にあった錆びたペンチのようなもので前歯を挟んでクイっと捻ったかと思うとガッと一気に抜いてしまった。一瞬痛みが走ったものの、ほぼ抜けかけていたせいで苦痛を感じることはなかった。ただ、あまりの強引さに驚いたことは確かだ。
口をゆすいで多少落ち着いた田中さんに彼女は言った。
「この歯はどうしますか」
「どうすればいいんでしょうか」
彼女はただ床を指差した。
「え? どういうことですか」
やはり何も応えず繰り返し床を指差す。
田中さんは子供の頃の話を思い出した。上の歯が抜けた時は床下に、下の歯が抜けた時は屋根の上に投げるといいという。抜いた田中さんの上前歯も床下に投げろということなのだろうか。いずれにしてもどうして良いのかわからない。判断を仰ごうと医師の方を見上げる。
と、彼女の顔付が変わっている。皺はさらに深くなって理知的な表情は消え、お伽話に出てくる老婆のようだった。両手に杖と林檎を持たせたらピッタリはまるようにも見えた。手は小刻みに震えていて、指先はやはり床を差している。
「地獄」
「え?」
「サタンが歯を集めている」
「は?」
「サタンに歯を売ったら大層な褒美がもらえるよ」口調はもう歯科医師ではない。
なにを言ってるのだ。新手の詐欺か。褒美とやらを貰ったらそのあとで高価なものを買わされる手口だろうか。そうだ、間違いない、詐欺だ。詐欺の手口を知るためにもっと話を聞いてやろうかと思った。
「どんな褒美がもらえるんですか?」
「災いが起きる」
「それじゃ褒美じゃないですよね」
「嫌いな人がいるだろ。そいつを呪うと災いが降りかかる」
スピリチュアル系の詐欺か。余計興味が湧いてきた。
「そうですか。それで?」
詐欺師は次のような話を一気に説明した。
呪いをかけるには、歯の抜けたその歯列を相手に見せればいい。ただ、気をつけなけれいけないことがある。その時まで隙間の空いた前歯を他の誰にも見せてはいけない。もし見せると、たとえ呪いの対象でなくても見た人に災いが起きる。鏡に映る自分であっても――。
「どうする? サタンに売るかい」
どうでも良かった。呪いなど信じていないし、抜いた歯のことなどどうなっても良かった。菌が繁殖し、腐って茶色くなった歯など元に戻せないし、持っていてもしようがない。
「処分してください。それより、この抜けた跡はどうすればいいんですか?」
「ああ、言い忘れてた。抜けた跡を戻すと呪いが効かなくなるよ。それより、一旦呪いがかかった後で戻すと災いが自分に返ってくるからね。戻さないほうがいいよ」
手がこんでいる。災いが返ってくるのを避けたければ金を出せというのか。そんな手には乗らないよ。とにかく少しでも早く歯を入れたい。ただ、この医院で処置をするのはまっぴら御免だ。さっさと退散するに限る。
田中さんはありがとうございましたと言って起き上がり、診察台から降りて出口へ向かった。
「お気をつけて」
背後でしわがれた声が言った。
診察室を出て玄関へ向かう。受付には例の若い女が座っている。田中さんは仏頂面で、提示された治療費を支払った。法外な治療費を請求されるかとも思ったが妥当な金額だったので少しホッとしながら外へ出る。
「お気をつけて」背後から若々しい声が聞こえた。
外はひんやりとしている。背中にずいぶん汗をかいていた。
新たに歯を入れるには時間がかかった。インターネットでいろいろと調べた結果、インプラント治療を受けることにした。ただ、予約がいっぱいで二週間以上掛かるらしかった。
その間、田中さんは詐欺師のデタラメを信じたわけではなかったが歯を見せて笑うことはなかった。仕事が忙しくなって笑うどころではなかったのだ。
そんな中でも先輩佐藤の嫌がらせは相変わらず続いていた。
あるとき、佐藤の叱責の言葉に田中さんは唖然とした。
「おめえな、一回地獄に堕ちろ」
佐藤は真顔でそう言う。怒りを通り越して笑いが込み上げてきた。目をカッと開き、口角をキッと釣り上げて田中さんはケケケと笑った。前歯とその隙間が一週間ぶりに姿を現した瞬間だった。先輩佐藤は予想外の反応に怯んだのか「いいから、ちゃんとやっておけよ」という言葉を残して出ていった。
翌朝、田中さんが出社すると職場がざわついていた。昨晩、佐藤が事故で亡くなったという。車で帰宅途中、車線をはみ出して対向車と正面衝突した。エアバッグは作動しなかったらしく、フロントガラスに頭から突っ込んだ。その途中、ハンドルに当たったのか、上下の顎は潰れ、歯はバラバラに折れていたという。
朝礼のあと職場は何事もなかったかのように平常どおりバタバタと回った。ただ、田中さんはちょっと気になることがあって仕事に集中できなかった。
昼休みに入った。田中さんは歯医者に電話して、予約していたインプラントの治療をキャンセルした。
―― 了 ――
(この話はフィクションです)