ここでキスして
私がまだ二十代の頃、不思議な女に出会った。夜中の十一時くらいだろうか。飲屋店街から少し外れた薄暗い通りだった。コツコツと靴音を立てて暗い中から現れたその女は白いマスクをしていた。マスク越しの美しさは当てにならないと今となっては思うのだが、頭のてっぺんから爪先まで、すべてが私の胸を躍らせた。コツコツと近づく靴音の響き。上品な香水の香りがふわりと顔を撫でる。その刹那に女の横顔を覗き見た私は「え?」と小さな声を漏らした。
マスクの横から何かがはみ出ている。口角、つまり唇の端がマスクの脇から覗いているのだ。
(これは裂けてるな)と、私は一瞬で察した。なるほど、彼の女はこういうところに居るものなのか。いや、本当に裂けているのか確かめたい。そう思い、二、三歩歩いたところで振り返った。すると女も立ち止まってこちらを見ている。どうやら私を手招きしているようだ。女に誘われるなんてことは今まで一度もなかった。ましてや口の裂けている女は会うのも初めてだ。普段なら(こんなオイシイ話があるものか、後で痛い目に遭うに違いない)そう思っただろう。だが、その時の私にはなんの迷いもなかった。自分の直感をどうしても確かめたかったのだ。私は招かれるまま、吸い寄せられるように後を付いていった。早足で彼女を追いかけ、斜め後ろから覗き込むように顔を見る。ハイヒールを履いた女の顔はちょうど同じ高さにあった。やはりマスクの端から口角が覗いている。さらに反対側に回って逆側の頬を見る。だが、こちらは何も出ていない。
「ん?」
今度は何もないことに驚いた。
しばらく考えて私は理解した。これは裂けているのではなく、口が横に曲って付いているのだと。とはいえ、裂けた口ならば想像できるが、曲がって付いた口は具体的なイメージが浮かばない。私は、マスクをとった顔をどうしても見たくて仕方がなかった。
女の後をついて行く。つまり、私はもと来た道を戻っているわけで、飲食店がまばらに並ぶ通りへ向かっている。
しばらくすると女は歩調を緩め、雑居ビルの間で立ち止まった。それから視線をこちらへ向け、先ほどと同じように手招きをして私を狭い隙間へと導いた。五、六歩中へ入った所で彼女は私の腕をぐいと掴んで私の背中を壁に押し付ける。二人は身体が触れるほど近づいて向き合った。白いマスクをした顔が真正面にある。暗い中でも微かな瞳の輝きがわかる。女は吐息まじりの声で言った。
「キスして」
私は口中に溢れる唾液を喉を鳴らして飲み込む。マスクに隠れた口を確かめたいという好奇心はもうどこかへ行ってしまっていた。いや、このマスクを外せばいずれの欲求も満たせるのだ。私はマスクの紐に手をかけ、ゆっくりとそれを彼女の顎から外した。
「あっ!」
そこには、裂けているわけでも横に曲っているわけでもない左右ふたつの口があった。私の目は右へ左へと素早く動いた。よく見ると向かって左の方がやや小さい。マスクに収まっていたのは恐らくそのせいなのだろう。
「キスして」
女は繰り返しそう言った。両方の唇が動いて同じ声を発した。
どっちだ。右か左か、大きい方か小さい方か。どちらにすればいい。考えても意味がないことは分かっていた。しばし迷った末、私は直感で右の唇に自分の唇を重ねた。女は舌を巧みに絡めながら同時に左の口から吐息を漏らしている。吐息が私の左の耳たぶに掛かる。もはや私は正気ではいられなくなった。
その先のことは憶えていない。気がつくと、私は壁に寄り掛かって腰をおろし、通りに消えて行く靴音をただボーッと聴いていた。私は恐らく女に何かをされたのだろう。吸い取られたのか注ぎ込まれたのか。それは私には分からない。
しかし――
その時から私の中で何かが大きく変わっていった気がする。私の周りには不運な出来事ばかりが起き、いま私はうだつの上がらない人生を歩んでいる。
そして私は思うのだ。もしあのとき左の口を選んでいたら、私の人生は随分と違ったものになっていたのではないかと。
―― 了 ――
(この話はフィクションです)