220712 絵本と詩と塩タブレット
絵本が好きだ。
大人になってから買った本は少ないけれど、全部すごく好きだ。ここまで三回日記の内容を没にしているので、もう家にある好きな絵本の話をいくつか書いて私の番とする。
1. ぼくのたび
街から出たことがない、小さなホテルを営む「ぼく」が、訪れる「お客さん」たちのようにどこか遠くへ旅をする空想をする話。
「ぼく」は、かつての「お客さん」たちが旅先から手紙をくれるような、そういう仕事をしながら、ひとりその手紙を読んでは「自分もいつか旅をしてみたい」と考えて、眠って、そうしてまた変わらない街のホテルでの一日を始める。
同じことを丁寧に、何度も繰り返し行える人は誠実であると思う。そんな人が、ただただ、いいなあ、もしもいつもと違うことをしてみて、そこでこんなことが起きたら。こんなことがあるかも。こんな喜びがあるかも。と、ただ心のうちで考えているのは、たまらなく心惹かれる。
知らないことや、経験していないことをマイナスに思うのではなく、日々目の前のことをこなしながら、ただ憧れや想像、期待を抱いて、いつか、と思い過ごす「ぼく」を眺めるたび、心の真ん中にまるい手触りの、茶色い、小さいけれど中身のつまった何かが現れる。
それを植えたら、きっと胡桃の木のようなものが生えるのだ。派手ではないけれど、磨けば丈夫で生活に馴染む、健やかで素朴な、優しい印象の何か。私もそうなりたいのだと思う。
2. しずかなみずうみ
水辺が好きだ。いつだって水際にいられればそれは幸せだろうけど、今のところ湖のほとりや川の前、海のそばに暮らす見通しが立たない。
表紙とタイトルを見ただけで、水のそばにきたような心地が肌に感じられたので買った本だったと思う。これならみずうみを部屋に持ち込めるかも。
はたして正解だった、本を開くと自分のからだが消えて、感覚だけがぐわっと静かな木々や山の合間を飛んでいき、やがて湖の真ん中へやってくることができる。
まだ星が湖面に映る時刻からはじまり、森のあの、朝が静かにやってきて、数えきれない命の気配がまだ起き出さないころに、ここへ小舟でひっそりと漕ぎ出していける、朝日が溶け出した湖が、冷たいまま、だんだんとあたりの山々に気が付いて黙って映し始めようとするような、そういう中にひとりで居て、水音を聴きながらじっとしていることができる。
湖の真ん中は世界の真ん中! 読むとときどき、一昨年に湖へ行って、深夜寝転がって星空を眺めたことを思い出す。体が溶け出して自分がなくなっていって、心地がいい。
まずい、家にある絵本なんて10冊程度なのだから一言ふたことで全部書けるだろうと思ったら2冊でへとへとになってしまった。感想なりお返事なり、自分の心にあるものを言葉にするだけでどうしてこんなにへとへとになってしまうんだろう!
ばっと心に何か感覚や景色が生まれるのに、それを、それに対して思ったことを、誰かに伝えようとするとたくさんの言葉が必要になってしまう。少ない言葉で表現するのが難しくて、あれやこれやとどうにか例えをさがしたり数を並べ立ててしまって、それで呆れた長さになる。しかもすらすらとはいかない。
適切な言葉がさっと出てきたら、読む相手も自分もへとへとにならずに、飾らず嫌味もなく、こまめに気持ちを伝えられるんだろうになあ。
手紙を書こうとすると、便箋に2、3枚の内容でも、大体いつも10枚くらい無駄にしてしまう。レターセットを買うのは勇気が要る。便箋と封筒とが別売りされていると、便箋をたくさん買う。
絵本といえば、前の前のクリスマスからずっとこれが欲しい。
めっちゃいいよお。五味太郎さんがそもそも好き。
なんかもう少し好きな本だのについて書きたかったけれど、そろそろ仕事をしなければならないから、銀色夏生さんの本からひとつだけ書き出す。
時間をください
力をください
気持ちをください
終わりのない歌をください
僕を包んで
抱きしめたまま歩いてくれるものをください
何にもまどわされないように
強く思いつめたまま生きていけるように
銀色夏生さん、高校生の頃図書館でたまたま手にとった『あの空は夏の中』にあった「恋人同士の会話にはムダなものはひとつもない」というのが当時忘れられなくなって、何度もその本を読みに図書館へ行った。という記憶の人だ。
現実で私の恋がうまくいくことは少なく、「あの会話は不要であった!」と嘆くことも数え切れないほどあったけれど、いつか終わることも含めてその恋だったのなら、それは「ムダ」ではなくいっぺんの糸だったのかもしれない。もしかしたら恋のさなかではなく、いつかそれらを思い出した時、こうやって眺めるための言葉だったのかもしれない。わからない。詩というのは広い庭の中にぽつんと置かれたものみたいで、大体遠くから眺めて好き勝手感じては、通り過ぎるような感覚でいる。
ともかく、信条としているわけではないけれど、このフレーズは当時からたくさんの時間が経って、たくさんの人と関わって、床にぶっ倒れたり踊り出しそうになったりした後の今でも、よくよく頭に残っている。
手元にある『そしてまた波音』も、大人になってからたまたま手に取る機会があって、どうしてもうちに来て欲しくて持ち帰ってきた、唯一手元にある銀色夏生さんの本だ。
私の手元にくるまでにぼろぼろになってしまっていたそれを、なんのしみだかわからないもので固くなったページを開いて、パラパラ読んで、また知らない人の庭を生垣の隙間から覗いて、時々自分ごとのように思ったり、ふうんと思ったりしている。
全然関係ないけれど、銀色夏生ってなんだか某オーエンみたいね。
それから今日は塩分タブレットを無心で10粒くらい食べてしまい、頭痛に見舞われていた。(日記)