【弓道教歌】師に就いて稽古せよ★
今回は”師に就いて稽古せよ”という内容になります。
64 吉田、大和
(歌意)
師にもつかず、自分勝手に弓を射る人は、弓道の如何なるものかを知らぬ愚かな人である。
(感想)
イメージする師弟関係って”流派東方不敗”なんですよ。(割愛します)
今だと弟子を名乗るようなこともあまり無いので、
師は”教えてもらってる人”くらいの捕らえ方をしておきます。
自分勝手もどこまでをイメージするかですね。八節を知らずにいきなり引くのと、ひとり稽古でも違ってくるでしょうし。
敢えて解釈は増えるような曖昧さを残してる気がしますね。
65 竹林、雪荷、道雪
(歌意)
弓道に辨(わきまえ)なく射形もかまわず、的にさえ中ればよい、師匠は無くても射られるなどと云うのは真の弓道を知らぬ者の考えであって、巧者(熟練者)の心持ちがわからないからである。「あをによし」とは枕言葉である。
(感想)
ごく稀にいます。
射形は気にしなくて、的中さえすればいいという考えの方。
そういう人ほど的中しなくなった時だけアドバイスを求めて、その時だけやる人。次に会った時は元に戻ってます。
66 日置
(歌意)
同上
67 印西
(歌意)
同上
68 吉田、大和
(歌意)
習学しなければ、人の踏むべき道を知ることができない。弓道も師について稽古することによって上達し、弓道の真理を知るようになる。師は有りがたいものである。しらま弓について教歌57の註を参照。
(感想)
一般教養も先生が必要です。ハラスメント気質の方もいます。
弓道をやる以前に、人間性をどうにかしたほうがトラブルもなく快適だと思いますよ。
弓道だけ良き師に出会う、なんてコトはありませんから。弓道”も”ってあるんですよ。
69 日置、吉田、大和、雪荷、道雪、印西
(歌意)
盲人は杖がなくては歩くことができないように、弓道も指導を受けず我流で稽古をしていては上手になることは出来ないので、師匠について学ぶべきである、との意。
(感想)
どの程度の頻度で指導いただければ師匠(指導者)が着いてると言えるのでしょう?
年1回?半年?ひと月?
毎日や毎回では辟易しちゃいますし、月に1〰2回くらいがちょうど良く感じます。
あとは我流の境目ですよね。
”先生の教えに従って1年間練習してます!”は我流なのか?
”最初の1年間だけ指導貰ってました”は我流なのか?
”弓道教本や動画が先制です”は我流なのか?
ドツボにハマりそうです。
70 大蔵
(歌意)
物の道理の辨別(せんべつ)出来ぬ者は、師について習う必要はないとしているが、これは、弓道の如何なるものかを知らず、巧者(熟練者)の弓引く味わいを知らぬからである。
(感想)
辨別は”弁えて区別すること”です。
道理を弁えることができない、と解釈すればいいですか?マナーやルールと言い換えても良さそうです。常識までいくと大層な気もします。
ルールやマナーを守れない人は弓を引く資格なし、ということですかね。
周囲との軋轢を生まずに、共に成長しない限りは熟練者にはなれないと。
以上、”師に就いて稽古せよ”についてでした。
皆さんの感じたことを是非コメントしていってください。
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